〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
イエスを十字架につけたのは、午前9時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
 (マルコによる福音書15章25〜32)
M.K姉
 私はもうじき二十歳(1970年)になるという年、宝塚ルーテル教会で洗礼を受けました。そこでルターの小教理問答を学びました。
 教会では「罪」ということを言われます。それほど自分の心を深く見つめなくても私は自分の心に罪があるということはよくわかりました。「泣く人と共に泣くことが出来ない、喜ぶ人と共に喜ぶことが出来ない自分」そして自分が何度も何度も「この点はよくないから なおさなければ」と思っても次も同じような過ちをしてしまうそんな自分を知っていました。であってもイエス・キリストの十字架が自分とどうかかわるのか、どうしても洗礼を受ける決心までは踏み込むことが出来ずにいました。
 そんな中でも出会いがありイエスさまを信じる事に導かれ、洗礼を受けた時は「イエスさまを信じていくならばどんな困難がおきてもそれに耐えていけるに違いない」そんな思いがあったような気がします。恵みとして与えられた信仰というよりも自分の信仰に頼っていたと思います。
 信仰生活をしていくうちに、渇きを覚えるようになってきました。学校はミッションスクールでしたので毎日礼拝があり、寮でも週に一度祈祷会、礼拝がありました。もちろん教会にも毎週通いました。教会、学校ともそれぞれ多くのことを学ばせていただきました。けれども、その頃はそこで語られている説教が「どこか納得できない」という思いがだんだんしてきていました。自分の信仰もまた観念的な気がして、心を閉ざしていったように思います。でも友人たちと信仰について議論する時は自分もやはり教科書的な事を発言していたと思います。

 5月に洗礼を受けたのですが、夏休みになり長野県の実家に帰りました。兄たちは農業で忙しいため、なかなか教会に行くことが出来ないので野尻湖の近くにある日本キリスト教団信濃村伝道所の清水恵三牧師に説教テープを送ってもらっていました。
 その説教テープを聞いたとき、それまで教会でも学校の礼拝でも感じたことがない感動をおぼえました。その時のことは忘れられません。イエスキリストの福音とはこんなに深いものであったのかと思いました。
 深い人間理解に基づいた説教でした。人間の根元的な罪が語られているように思えました。  人間とは神なしで生きようとする。人間は神に成り代わろうとする。そして神をさえ殺そうとまでする。そんな罪が確かに自分の中にもあることに気づきました。それがイエス・キリストを十字架にかけた、ということなのだということも。
 マルコによる福音書15章32節に、十字架のイエスさまに向かって
「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」
と祭司長たち、律法学者たちがイエスを侮辱して叫んでいる「メシア」「イスラエルの王」その言葉の一つ一つが信仰告白にさえなっている。そして「十字架から降りよ」とは、すでに見上げていることなのだ。人間とはこのように呪いの言葉と同時にしか信仰告白が出来ないそういう者だ、それほど罪深い。私たちはいつも「見たら信じよう、見たら信じよう」と自分の力に頼っている。この苦しみが過ぎ去ったら信じよう。この病気が治ったら信じよう、などと。
 清水先生はそのことを批判したりはしませんでした。人間のその願いは身勝手かもしれないが、切実だということもよく知っておられました。
 この十字架の場面で群衆、祭司長、律法学者たちはイエスさまを自分の救い主として信じて告白するのではないのですから信仰告白としては欠けがあります。でも私はイエスさまに向かって侮辱の言葉を浴びせるこの人達とどれほど違いがあるでしょうか。私たちは罪に満ちたこの汚れた口で信仰告白をする。いや、させていただく。イエスさまはこの私の信仰告白を許し受け入れてくださる。そのことが分かったように思うのです。
 イエスさまは「あなたには苦しいこともあるだろう。自分の罪に悩むこともあるだろう。けれども私はあなたを贖った」と言ってくださっている。
 私たちの中にある苦しみ、悩み、渇き、闇、そして罪の問題、それらすべてをイエスさまは十字架で解決してくださった。そして復活して今も私たちと共にいてくださる。  そうだ。イエスさまの十字架とはこういう事だったのだ。イエス・キリストの十字架を分かったような顔をしなくていいんだ。その時少し分かったような思いがしました。その事が分かった時、私は解放された思いがしました。誤解を恐れずに言うならば「キリスト教という宗教」から自由になった思いがしました。
 けれども本当には私は十字架の意味を知らないのではないかと思います。神が私たちを愛し、私たちのためにその独り子を十字架につけたということは本当には分からない。イエス・キリストの十字架によって私の罪が贖われた、それを信じて告白して感謝さえする。けれども本当には知らない。けれどもそれらすべてを 承知の上で神さまは私を愛してくださっている。そうだと思うのです。
 神さまに自分の人生をゆだねるとかいいながらも、いつも私の信仰は中途半端です。けれども私はイエスさまの愛を信じています。私の人生を導いてくださっているそのことが信じられます。
 私がこうして今も教会に連なっていることが出来るのは、この清水先生との出会いがあったからだと思います。これが私の信仰の原点ともいえることでした。

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