〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
聖なる招きによって
S.K兄
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。
(テモテへの手紙 二 1章9節)

私の半生

私は、伊勢神宮の別宮滝原宮の門前に生まれ、支那事変の始まった翌年に滝原宮の門前にある滝原小学校に入学し、第2次世界大戦の敗戦の時は中学2年生の夏でした。当時は六三制でなく、六二制または六五制で、義務教育は8年間でしたから、義務教育は全て戦争中で、軍国主義を徹底的に教え込まれました。この間の小学校6年と中学1年の2年間は、大阪の船場の伯父の家に居候し、大阪商人の根性とその姿を肌で感じました。こうして育った私は、小学生の時に道徳(当時は修身)の時間で教えられた。
「人事を尽くして天命を待つ」
と言う言葉が好きでした。
そして学校では勉強すれば成績が上がり、成績がよければよい会社に就職出来、会社でも努力すれば認められ、給料も増え昇進すると思い、定年を迎える迄は、全て人事を尽くして自分の力で勝ち取ったと思い込んでいました。
 しかし、定年退職して会社人間であった忙しかった会社生活が終わり、ゆっくり聖書を学び、考え思い出して見ると、全てが自分の力で成し遂げたと思ったことが疑問になってきました。良い学校に入れた事、良い会社に入れた事、会社生活40年で、製造・設計・建設と、3回大きく仕事が変わりましたが、良い仕事が与えられ、良い上司、良い同僚、良い部下に恵まれた事、そして家内とも大きな絆によって結ばれ、3人の子供が与えられ、順調に育ってくれた事など、何一つ自分の力で出来たものでない事が分かるようになりました。
 私は大阪で中学生となったのですが、1年生の終わる3月に大阪の大空襲にあい、九死に一生を得て、現在住んでいる大紀町滝原の父親のもとに戻ってきました。そこで転校となるので、当時、電気科は津工業学校しかありませんでしたので、春休みに単身で県庁と松阪工業学校に行き、化学科に転校願いを出しました所、誰が決めたか知りませんが、私の知らない間に機械科に入れられてしまい、私もその時 中学1年生(13歳)が終わったときでしたから、気にもせず、機械科の学生になってしまいました。ここで、私の人生の方向が決まったのです。
 先ず結婚ですが、松阪工業学校の機械科に多気町の小野虎男先生がおられまして、その先生の紹介で、今の家内と結婚する事になりました。お陰で後に多気集会に出席させていただき、今、松阪ルーテル教会の皆様のお仲間に入れていただいております。
 就職も、機械科におりましたので、鉄鋼業大手の住友金属工業株式会社に入社できました。最初は、名古屋市の陶磁器を作っている鳴海製陶工場に配属されましたが、半年後に千人を3百人に縮小するという今のリストラに遭いました。
 幸い、私は本社採用で機械科出身だったのと、会社は 松阪工業学校卒業生を就職早々に解雇しては、今後松阪工業学校が人材を出してくれなくなるとの配慮もあり、この時、住友金属工業株式会社の大阪の主力工場に転勤出来、給料も2千円から3千円に跳ね上がりました。転勤後は、半年のスタート遅れで、実習中の10人の同僚に追いつくのに苦労しましたが、周囲の方々が助けてくれました。会社も戦後の復興は大変でした。しかし、逐次息を吹き返し、1960年代からは、高度成長の波に乗り、会社と共に順調に過ごすことができました。また、大阪から和歌山・茨城県の鹿島へと新鋭工場に転勤して建設にも従事出来、各地の土地と人情にも触れる事が出来ました。和歌山では長女が教会の日曜学校に行くようになり、私達も教会に導かれました。
 会社においては、現場作業はコンピューター化により、熟練工の必要がなくなる等、近代化が進みましたが、事務技術作業の近代化であるパソコン化は、私の定年になるまで待ってくれました。お陰で私は経験と年功が尊重される会社生活を送る事ができました。

伝道の書3章11節(口語訳)
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」
と書かれていますが、振り返って見るとまさにその通りでした。
ローマの信徒への手紙8章28節の
「神は万事を益になるように共に働いてくださる事も」
強く感じました。しかし、一切を神に委ね流れるままに過ごしたのではありません。祈りながら努力をして参りました。その祈りにも応えてくださったのだとも思わせていただきました。
40年間の会社生活ですから、順風満帆ばかりではありません。苦しい時もありました。しかし、ローマの信徒への手紙5章3〜4節に書かれているように

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。」

と言うことを思い、また、私の弱さを知ってくださっている神は、コリントの信徒への手紙一10章13節にありますように、

「神は、耐えられないような試練に逢わせることはなさらず、試練と共に、それ に耐えられるよう、逃れる道をも備えて いてくださいます。」

ことも分かり、試練には耐え、希望を見出すことも出来たのだと思わせていただきました。そして自分にとっては良いことも悪いことも、全て神の恵みと感謝するようになりました。
また、コリントの信徒への手紙二4章7節に

「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでない」

と、ありますように、過去のことは私がしたのではなく、全て神がなしてくださったと思わせていただきました。そして、本当の神を知らなかった時に与えられた
「人事を尽くして天命を待つ」の格言は、今では「祈って 天命を待ち人事を尽くす」
に逆転しました。

定年で故郷滝原へ

 大紀町滝原で生れ育ちましたが、鉄鋼会社に就職し、名古屋を振出しに大阪、和歌山、そして茨城県の鹿島・水戸と、通算40年転々として、定年を迎え、1990年今の大紀町滝原に戻って参りました。
 この間、教会も、和歌山では日本バプテスト教会連合、茨城県鹿島では日本バプテスト同盟、水戸では日本バプテスト連盟、三重県に戻ってからは、津市の日本バプテスト宣教団に1年間通いましたが、あまり遠いので、近くの日本キリスト教団大台めぐみ教会に、約10年間お世話になりました。

松阪ルーテル教会に転入を許される

 しかし、三重県に戻りまして以来、何かありますと、何時もルーテル教会で学ばせていただいたり、お世話になりました。その第一は多気集会です。多気集会は御存知の通り愛農学園の多気町の同窓者の集まりですが、私は愛農学園の卒業生でもなく、多気町出身でもありませんが、家内が多気町出身のよしみで招かれたのでした。また「グループシニアライフを考える会三重」という集まりは、近畿福音ルーテル津教会をお借りし発足し、1998年の津の星野富弘花の詩画展も、津ルーテル教会の平井清先生御夫妻に御協力をいただき、その お祈りに支えられて開催できました。そして、2003年の松阪の詩画展は、皆様には大変お世話になり、須田先生御夫妻に星野家への御礼にまで連れて行って貰うなど、最後の締め括りをしていただきました。また、2001年には近畿福音ルーテル宣教50周年行事で「ドイツ・ノルウエー10日間の旅」にも思いがけず参加させていただき、松阪ルーテル教会と津ルーテル教会の50周年記念会、どちらにも出席させていただく事ができました。
 また、日本福音ルーテル教会の元牧師を実行委員長とする三重アシュラムがあり、私達夫婦で事務局を勤めさせていただいており、毎年2月に一泊アシュラムを開催し、お二人の牧師に御奉仕をお願しておりますが、2003年は、その お二人の牧師が突然 御参加していただけなくなり、そのピンチを須田先生に救っていただきました。そして、この時、安福ふみえ姉との出会いがありました。このような多くの有難い繋がりがありましたので、2003年6月に家内から近畿福音ルーテル松阪教会に転入させていただかないかと相談があり、不思議に躊躇せず決めさせていただきました。そして、県下の日本キリスト教団の各教会の牧師にも挨拶に廻り、先生方にも祝福のお祈りをいただき、転入させていただくことになりました。これらの事の全ては 主の御計画とお導きを感謝しております。

お恵みに感謝

 最後に、マタイによる福音書 20章1〜16節 皆様よく御存知の「ぶどう園の労働者」のたとえを思います。ぶどう園は教会です。朝早くから 働いてくださっておられますのは、大先輩の役員の方々、そして教会員の皆様です。そこへ私達夫婦は、主の大きな憐れみにより、夕方になって転入させていただきました。しかし、主は先輩の皆様方と分け隔てなく同じように、今、豊かな お恵をくださっております。 主と、松阪ルーテル教会の須田先生を始め、役員・教会員の皆様に 深く感謝しております。

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