〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
洗礼を受けて虚しさが消えた
R.S姉

 苦しみにあったことは、わたしに良い 事です。これによってわたしはあなたのおきてを 学ぶことができました。
 ( 口語訳 ・ 詩篇119篇71節 )
 私の聖書との出会いは高校の時でした。熊本市内のミッションスクールに進学した私は、ギデオン協会からのプレゼントを受け、毎朝、讃美歌を歌い、聖書の話を聞いて、学生生活を送りました。しかしながら、この時はまだ信仰にはいたらず、美しい歌、美しい言葉として心に残っただけでした。
 それから社会へ出て、毎日同じ生活の繰り返しの中で、「私は何のために生きているのだろう、人生の目的は何なのかを考えるようになり、生きる意味を探し求めました。それがいったい何なのか、これだというものが欲しかったのです。そのため、友達から誘われるといろんな事をしてきました。旅行に行ったり、ダンスパーティーや遊びにも行きました。でも、その後に残るのは、「私はこれでいいのか、こんな事ばかりしていたら だめになる」と思いながらも、そんな生活が続いてしまいました。
 そんなある日、駅前でキリスト教の人々が人々に呼びかけ、チラシを配っていました。それを読むと、こんな世界があるのだろうか、本当にあるのだったら欲しいと思い、近くの公民館で開かれていた伝道集会へ行ってみました。そこで一人の男性が、「自分は競艇にこってすっからかんになり、もうしないぞと思ってもまた行ってしまう。心は虚しさに包まれていましたが、また行ってしまう。それが、教会に行くようになってから、競艇にも行かなくなり、虚しさもすっかりなくなりました。」と話しました。本当かなと疑いつつも、私も一度行ってみようと、教会へ出かけて行きました。その時の牧師先生の話にはひとつひとつ うなずけるものがあり、それから教会に通い始めました。

 一月ほど経つと、洗礼を受けないかと誘われました。友達や姉妹からは止めときなさいと言われましたが、やはり教会には心が引かれ、洗礼を受ける決心をしました。11月の冷たい川の流れに身を沈められ、立ち上がったときに、古い自分に死んで、新しい人生が開かれたのだと、大きな感動をもって、生まれ変わることができました。神様はこれらのことを賢い者には隠して、幼子のような私にお示し下さいました。
 それから数ヶ月経つと、心の虚しさはすっかり消えていました。道ばたに咲く花にも、「わーっ、こんな所にこんな小さな花が咲いている、きれいだなー、と、心から思えるようになりました。今までも見るには見ていたのに、その美しさに気づく心がなかったのでした。

 その時から早くも35年の歳月が流れました。信仰の成長の遅い者ですが、神様はいつも共にいて、み言葉によって支えられています。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に 従って召された者たちには、万事が益 となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
(ローマの信徒への手紙 8章28節)

 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」といった。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたの信じているとおりになるように」と言われると二人は目が見えるようになった。
(マタイによる福音書 9章28〜30a節)

《 バックナンバー 》
Copyright (C) 2004 Matsusaka Lutheran Church, All Rights Reserved.