〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
永遠の幸せ
K.H姉

キリスト教に出会う

 私は大阪女学院というミッションスクールで学び、キリスト教に出会いました。全員がクリスチャンの先生で、とりわけ熱心な先生に五年間受け持っていただきました。
 21歳の時東梅田教会で受洗しましたが、当時1950年(昭和25年)大阪はまだ焼跡が多く、教会といっても進駐軍の払い下げの蒲鉾兵舎でした。卒業した学校の同窓生や在校生が来ており、若い人達が心の拠り所を求めて青年会は大変活発でした。でも教会生活は長くは続きませんでした。
 23歳の時父を亡くし、3ヶ月経って また長兄を亡くし、母が天理教の信者だったので2度続いて天理教のお葬式を出しました。傷心の母の側にいる内、キリスト教会をご無沙汰してしまい、その内、天理教の布教師である主人に出会って結婚しました。母は喜んでいましたが、信仰が復活した時、主人の大反対に合わねばなりませんでした。

苦しみの結婚生活

 昭和30年代(1955〜1965年)は、まだ敗戦の爪跡の残る発展途上の貧しい時代でした。天理教の開拓布教師は無給で布教します。時々主人の親からお米や野菜が送られてくるのみです。そんな中、子どもが産まれたので主人は一時のつもりで働きに出ました。当時島根県で天理教の教会を持ち、社会福祉協議会の会長もしていた主人の父が青少年達の世話をして、次々と若者を家へ送ってきました。その人達の仕事を見つけるのに主人は走り回り、即生活の世話もしなければならず思い余って知人から土地を借り、粗末な小屋を建てて鉄工所を始めました。今から思えば大胆な事ですが一時のつもりで働き始めた鉄工所で、手が器用なのと建築が好きだったのと両方で家の鉄骨を作る仕事を覚え、その頃は経済発展途上だったので何とか経営が成り立っていたようです。しかし私は、幼い子ども達を育てながら、青少年達の食事の世話をしなければならず、それはもう家庭とはいえない子ども連れの寮母のような暮らしで、辛くてたまらずふと昔の教会生活を思い出し、10分程歩いて行った所に普通の家なのに夜になると十字架が光っているのを見て、そこを訪ねていきました。そこは信者さんの2階が教会になっていて、当時まだ伝道所でしたが日曜日は礼拝があり私が訪ねると、女性会の方達はそれは親切に応対してくれました。

信仰の復活

 しかし、現在の状況は恥ずかしくて言えません。私には二歳年下の知的障害の弟が実家に居て、母はその故に悩み、天理教に入信したようですが、天理教では因縁が悪いとか親が通り返しの道を歩まねば因縁が切れないとか言います。私はそれが解からず批判的な気持ちを持っていたので、そのことについて尋ねました。すると

 「本人が罪を犯したのでも、両親が罪 を犯したのでもない。神の業がこの人 に現れるためである。」
                  (ヨハネによる福音書9章3節)
の有名な み言葉を教えていただき、私はその時飛び上がるほどの感銘を受け、「これだ!これにかけるのだ」と思い、その夜主人にキリスト教の教会へ行くと言いましたら、すごく反対されました。それから長い受難の日が始まります。主人には嘘をついて教会行きが始まりました。教会ではすべての苦しみも忘れ信仰が復活し、ひたすらみ言葉を学び、元の教会から籍も取り寄せ、教会員にしていただきました。

まず神の国と神の義を第一に

 主人の企業は一時は発展して行くかに見えましたが、悪質業者にだまされに追い込まれ、ヤクザが来ては取立てられ、恐ろしい経験をしました。食べるに事欠きガス代も払えなくてクリスマスの日、「今日払ってくれなければガスを止めます。お昼にもう一度来るからお金を作っておくように」と言われ主人に話すと「今から集金に行こう」と私を誘います。一人では絶対に行けなくていつも怯えた様子で、今から思えば神経を患っていたようです。一緒に行くつもりでしたが、ふと、どうせ行ってもお金はくれない、今日はクリスマス礼拝のある日だ。そうだ 教会へ行くのだ!

 「鼻で息をする人間をたよりにするな。 そんな者に何の値打ちがあろうか。」
                   (新改訳・イザヤ書2章22節)

という聖書の み言葉が浮かび教会へ行きました。有賀喜一先生のお話に感激し、終わった途端「そうだ私はガス代を作らねばならないのだ」と急ぎ階段を降りようとした時、有賀先生が、階段の踊り場に走って来られ、私の上着のポケットに何かを入れ「これは神様からのプレゼントです」と言って去って行かれました。教会を出てポケットの中の物を出してみると「クリスマス御礼」と書いてあり「西宮聖愛教会」と下に書いてあるではありませんか。無牧の教会で神学生が順番に礼拝説教に来てくださっていましたが、その日はクリスマスのため、牧師先生が来てくださったので、教会からお礼として差し上げたらしいのを開けもせず直接にくださったのです。ガス代の事等誰にも話しておりませんので先生が解る筈がありません。帰宅すると同時にガスの集金人が来て、いただいたものはすぐ3ヶ月分のガス代となって支払われ、まだお釣りがありました。

子への教育

 その頃債権者の取立てが厳しく目ぼしい家具に赤紙を貼っていきます。我が家ではピアノが一番大事なもの、子供にピアノを習わせるため必死の思いで購入したものの、まだ半分も払っていません。買った楽器店で事情を話して預かってもらう事にし、長女が学校へ行っている間に持って行ってもらいました。家の事情をうすうす知っていた長女は学校から帰ってきてピアノがなくなっているその場所をじっと見つめ涙をいっぱい溜めていました。私は主人に切に願って「ピアノは教育にどうしても必要だから早く取り戻したい」と言いましたら、すぐ楽器屋さんに交渉してくれましたが、危ない客と察して「残金全額払ってくれたらすぐ持って行く」と言われました。するとどうでしょう。あんなに臆病だった主人に俄然力が出て、一人で集金に行きお金を作って持って行くと、すぐにピアノを持ってきてくれました。長女は喜んで前にも増し熱心にピアノのレッスンに励みました。
 主人のうつ状態も落ち着いてきて新聞広告で建築会社の募集を見て試験を受け、合格して39歳でサラリーマンとなりました。

主人からの迫害を受けてもBR>
 主人は建築が大好きで水を得た魚のように働き始め、資格も取り、社長から愛されてだんだん家計も落ち着いてきましたが、私が教会へ行っている事が分かるとひどく怒り、私の持ち物全部を調べ、聖書や讃美歌、キリスト教関係の書物は手当たり次第破り捨てました。でも不思議にすぐ与えられたので不自由はしませんでした。 幸い、主人の会社は日曜出勤で水曜がお休みでしたので日曜の礼拝は出席でき水曜日の学び会は、私のために木曜日に変えてくれたので、礼拝と学び会は心配なく出席できたので信仰が強められました。  その時主人の任地は大阪の高槻市で、私たちも高槻市に引越し、家から歩いて5分の所にある日本同盟キリスト教団、高槻聖書教会に行く事が出来、近いのでよく奉仕をさせていただくことができました。子供達も四人共、教会で教えていただき、それぞれ高校、大学と進むようになると皆洗礼を受け、どの子もCS教師の経験をして成長し、一人一人巣立って行きました。

主からの贈り物

 ある時、日本クルセードと言って本田弘慈先生と有賀喜一先生のコンビで日本縦断の伝道会が高槻市民会館にやって来たのです。私の胸は踊りました。7年前に受けたクリスマスの恵みを忘れもしません。有賀先生にお会いしてあの時のお礼を言い、現状をご報告しようと思い喜びに溢れました。当日早めに行ってうまくお会いする事が出来、あの時の事をお礼申し上げると、「そんな事をした覚えはありません」ときっぱり断られました。私は用意した物を心から感謝してその会場で献金させていただきました。「これは神さまからのプレゼントです」とあの時言われた言葉を思い出し感謝にむせびました。

松阪市へ

 その高槻に22年間住み、主人は定年となり、長年の夢であった広い庭の家に住みたいと言う希望が叶えられ、1991年に、この松阪の地に引越しして来ました。その前年、次女が夫の転勤で大阪からこの地に移り住んでいたのでその次女の夫婦の行っている教会の牧師夫人を通して今の家を入手する事が出来ました。
 主人は毎日木々の手入れや盆栽の剪定をして理想の老後を楽しんでいましたが、ある日ボランティアで知人の梅園の剪定をしていて脚立から落下、頚椎損傷をして四肢麻痺、体幹機能麻痺という一級障害者となってしまいました。自分で描いた理想の生活は4年半で終わりました。人間の計画は何と空しいものでしょうと思いました。
主のご計画

 しかし嬉しいことがありました。転勤暮らしであった長女一家が家を建てる事になり、両親や妹の住む松阪に家を建てたいと願った事が実現したのです。娘婿はその時マイホームの完成と同時に皮肉にも浜松勤務となり、7年間の別居生活で、クリスチャンホームとして出発した娘夫婦ですが、一緒に住めるようになった時には既に教会への思いは冷めていました。それ以前は何処へ行ってもクリスチャンホームとして愛され娘婿は役員もし、娘は奏楽奉仕をして子供達も赤ちゃん時代からその両親の姿を見てきたのですが・・・・今は一人の奉仕となり残念ですが、きっと又婿はいつか神様に心を向ける時が来ると思うのですが・・・

一番の幸せ

 さて、主人の介護をして12年目に入った私ですが折にふれ、小さな証しをして来ましたが、何の反応もなく、耳が遠くなってきたせいか聞いているのかいないのかさっぱりわかりません。けれども完全に変わったことは、私が日曜日には教会に行くものと思っていることです。そしてクリスチャンの人達には好意的に接してくれ、須田先生の事は今まであった牧師さんの中で一番良い先生だと言ってくれました。もう私は証しをしません。近頃は少し疲れを覚えるようになりました。私の老後は主人を介護するだけのものだったのかと考えます。人生とは?

 「主が与え主が取りたもう。」

とヨブ記にあります。どんなに自由な老後であっても、もし真の神を知らなかったら心は貧しく惨めな人生であったと思い到ります。

 「主を知ることは知識のはじめ…」

と箴言にあり、パウロも

 「この世のものはすべて、ちり、あくた、 神を知った事が宝だ」

と言っています。4人の子供達はそれぞれ社会人、主婦となり、また それぞれの子供達を育てています。私も結婚暦53年となり、よい教会にも恵まれ、日曜日の礼拝には長女の奏楽で賛美できる幸せに恵まれています。ゆりかごから墓場まで持ち運ぶと約束して下さっている神様の御手を信じて、今後も歩んでまいります。
 友田総子姉も奥川泰弘先生も祝福されて召されました。神の祝福を受けて召されることはクリスチャンの一番の幸せだと思います。

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