〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
すでに恵を受けた私たち
F.Y姉
はじめに

 私が始めて教会に行ったのは、小学3年生の時でした。その頃から死に対しての恐れや、自分の不思議な存在など興味を持ち始めていました。
歌が好きだった私は教会学校で覚えた讃美歌を日常でも口ずさむようになりました。

「雄雄しくあれ、強くあれ、少年たちよ。
神様は、どこにでも共におられる…
右にも曲がらず、左にもそれず、
ただ真っ直ぐ進むのだ、進むのだ…」


 女の子ですが この力強い賛美が大好きで、怯える時には必ず歌って落ち着きました。小学4年生の時、熱心な天理教徒だった祖母が、死ぬのが怖い、死ぬのが怖い・・・と言いながら亡くなった時から、死への恐怖が強くなりました。人間には誰でも死と言う怖い課題があり、いつか自分にもやって来るという恐れでした。でもこの不安が打ち破られた出来事がありました。それは母が教会員のクリスチャンの方の告別式に行った後、私に話してくれた事です。その方は癌を患っておられましたが、最期には、イエス様が迎えに来られたと微笑みさえ浮かべ平安の内に召されたという事でした。
 子供心に自分が死ぬときは、聖書の神様を信じるあのおばあさんのような死に方がいいと思いました。恐怖の内に死んで行った祖母と、とてつもない違いを感じたのです。それからは、教会のイメージがアップし、母が行っている教会の子どもクラスに通い続けました。

信仰告白

 中学生になって自信のなさなど小さな自分が嫌であったり自分が思っている事を相手に言葉を通して伝えない限り、例え親であっても伝わる事はないという孤独感など、自分自身の不思議な存在に気づき始めました。自分は母の胎から生まれて来たけれども神様にたどり着き、実は神様から生まれたものである事を知りました。そして神様が私たち罪人の罪の処刑を受けるために人となられたのがイエス様である事を信じるようになりました。神様を知らずに、また分かりつつも神様から逃げ隠れしながら生きていましたが、そんな生き方の結果として、死の恐れや、孤独感、嘘、妬み、などが私にある事をみ言葉によって知りました。

「私たちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」
                    (イザヤ書53章6節)


 私は今まで神様を知っていると言いながら実は神様から背を向けて生きていた事自体が、罪の姿であったこと、聖書のみ言葉によって知り、悔い改めました。そしてまた、無力で自信のない私を神様が宝石のように貴く大切に思ってくださる事を知って何と嬉しかったことでしょう。
また

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
               (ヨハネによる福音書 3章16節)


「はっきり言っておく。わたしの言葉を 聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
               (ヨハネによる福音書 5章24節)


と。今イエス様が私に要求しておられることは、私の努力や良い行いや知識などではありませんでした。イエス様は私の罪の刑罰を代りに受けて死なれた私の救い主、唯一真の神として信じ受け入れることでした。

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。・・・・なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。」
             (ガラテヤの信徒への手紙 2章16節)


 そして私は18歳の時に、神と人との前に、イエス様は私の主と信仰告白し、受洗しました。私たちは神様から生まれ、目的を持って人生を送り、死んで永遠の神の国へ行く事が保障されているのですから、そんなすばらしいお約束は他にありません。一時的な辛さはあってもその時々にふさわしいみ言葉と、励ましを受けて、勇気をもって生きて行くことが出来ます。

再創造された私たち

 受洗当時の大阪府高槻時代の牧師さん、牧師夫人は娘のように私を思ってくださり、導いてくれました。そして個人的に家に呼び交わってくださいました。特に牧師夫人の気品や、献身的なご奉仕のお姿は、女性としてその足跡をまねて歩みたいと思うほどでした。先輩の青年の方々も私を取り囲んで家族のように交わり、教えてくれました。過ぎてみれば、主は、母を初め、キリストの香りが漂う方々にどれだけ出合わせてくださったことでしょう。私が救われるようになるために、誰かが祈り、誰かが私に愛をもってキリストを伝えてくれました。それがなければ喜びをもって生きる今の私はいません。すでに恵を受けた多くの人々が、キリストの召命を受けてキリストの証人となり、救われた多くの人達がキリストを伝えて行きました。・・・だから私たちが救われるようになりました。私は何のために救われたのでしょうか。天国に行くためだけでしょうか・・・。
 私が結婚して始めて与えられた子どもが5ヶ月で天に召されました。僅かな人生の間、周囲に幸せをもたらしながら使命を果たして天に帰って行きました。寂しく空しい私は、娘がどうして死んで、どうして私が生かされているのでしょうか、と何度も祈りました。彼女が天に召された本当の意味は私には分かりません。神様だけがご存知です。でも私が地上に残されているということは、キリストの証人となるためなのです。神様から受けた恵みを証しするために私はこの地上に残されているのです。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
             (エフェソの信徒への手紙2章10節)


 イエス様を主として信じた私たちは再創造されたものです。その体を主に捧げるために生まれて来たのです。私が救われるために、どれだけの代価が支払われたのでしょうか。どれだけ多くの方たちが祈り捧げてくださったでしょうか。これからの生涯も神様に委ねて、私に出来ることは小さい事ですが、主よ、私を導き、キリストを運ぶ者として使ってくださいと祈りつつ歩みたいと思っています。

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