〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
「わたしの心は燃えたではないか」
奥川和代

 わたしのの家に「エマオへの途上」と題された絵が飾られています。毎日この絵を見ながら教えられることがあります。

二人は、

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」
              (ルカによる福音書24章32節)

と語り合った。

 「エマオへの途上」の聖書箇所を要約すると、二人の弟子がイエスさまの復活の話をしながら、エルサレムからエマオへ向って歩いていると、イエスご自身が近づいてきて「やりとりしている話は何のことですか。」と言われた。彼らは目がさえぎられて、イエスだとは気づかず。悲しそうな顔をして立ちどまったと書かれています。
 十字架におかかりになり、すでに墓に葬られたイエスさまが復活されたことが信じられなかったのです。弟子たちは悲しみのどん底にうちひしがれていました。歩きながらイエスさまは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」目指す村が近づいてきたが、イエスはなおも先に行こうとされたので、二人は無理に引きとめ一緒に食事に席についた時、パンを取り賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。道で話し合っていた時、聖書の話を説明してくださったとき、「わたしたちの心は燃えたではないか」と書かれています。
 すぐさま、二人はエルサレムに戻り、他の弟子たちに自分たちの体験したことを喜びに満たされて話した。

 わたしは自分は信仰を持っていると思いながらも、思いがけないさまざまな問題に遭遇する時、悪い方へと向かっている自分の考えに気付き、うなだれている自分の魂に目覚めよと励まし、心を明るくしようと努力しますが、人間の力ではどうしようもなく、ますます自分の力のなさを痛感します。 

「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのでなない。主がその手をとらえていてくださる。若いときも老いた今も、わたしは見ていない主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。」
                 (詩編37編23節~25節)

 今日も、みことばを信じ、凡てを主におゆだねする時「わたしの心は燃えたではないか」を確信することができます。喜びに満たされて、イエスさまに守られ、支えられて生活させていただいていることに心から感謝しています。



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