〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
「神さまの声を聞いて歩む」
門山むつ子
 人は何のために生きるのだろうか?決して楽な事ばかりではない毎日があります。そして、教会生活においても、私は喜びに満たされた信仰生活ともいえない時もあります。

 けれども最終的に信仰の目を持って見るならばイエス・キリストを信じ、従う道が幸いなことであると信じます。そのことを教えられたのは日本では『ニルスのふしぎな旅』で知られているスウェーデンのセルマ・ラーゲルレーブ(1858~1940)の『エルサレム』という小説の事を知ってからです。

 話は、スウェーデンの農民たちが、いろいろな経過の後、共同体をつくり、招かれてエルサレムに移住します。小さいコロニーの生活が始まり、とても喜んでいたのですが、伝染病が発生して、せっかく行った人が死に始めるのです。その葬式をした晩に
 「自分たちは、せっかく神の都であるエルサレムに来て、これから本当にキリストと出会えると思っていたのに」
という風に言ってとてもしおれてしまいます。

 そんな時に一人の人と出会います。その人は、毎晩エルサレムの都を十字架を担ぎ頭に茨の冠をかけて歩き回り、修道院の前へ行ったらそこをのぞき、
「誰か自分の十字架と冠を変わってくれる人はいないか」
とのぞき
「やっぱりダメだ」。
とそれを毎日やっている少し気のふれた人がいて、その人と出会います。伝染病で死に始めている人たちがいるその時に、非常に苦しい、もうどうしたらいいかわからない、そうした場所に立たされている中、十字架かつぎの男と出会うのです。その男が彼らの住むコロニーに現れたとき人々は男の出現に神秘的な思いに満たされます。

 本文の一部を紹介します。

 「だが十字架担ぎの男は急いで立ち去りはしなかった。かえっていっそう家に近寄って来た。男は十字架を肩からはづすと、壁にもたせかけ、また同じように茨の冠を頭からとると、それを十字架の横木にかけた。ダーラナの衆は、男が重荷から解き放たれ、背中をのばし、足取りもかろく、通りの方へ去っていくのを見た。
 男が家の前に重荷を残して行ったのを知ったとき、ダーラナの農夫たちはひとことも言わなかった。しかし数人の者はかたわらに立つ仲間の手を堅く握り、ある者は眼に涙をやどした。おおぜいの顔はさえざえと輝いて、見違えるような美しさとなった。人々はその疑問に対して答えを得たのだ。死ぬためではなく、生きるためではなく、ただひたすらにキリストの十字架をになうために、そのためにこそこの地に来たのだ。人々はただこのひとつの事を知れば、それでよかった。」
     (イシガ・オサム訳 『エルサレム』(下) 岩波文庫 より)

 イエスさまが私の罪のために十字架にかかり死んで下さった。そして復活により私は罪が赦され生きるものとされました。このことは私にとって一夕一朝で理解できたわけではありません。けれども信仰の眼で見るときやはりその通りであると信じることが出来ます。感謝です。

 これからの人生、人生を神さまに委ね、神さまの声を聞いて歩ませていただきたいと願っています。


《 バックナンバー 》
Copyright (C) 2004 Matsusaka Lutheran Church, All Rights Reserved.