〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
「遅れてきた5人目」
古川智朗
 この3月、千葉にいる息子が小学校を卒業しました。それと同時に、小学校6年間ずっとやってきたジュニアソフトボールのチームを卒団しました。息子が6年生になった当初、チームの人数が足りず、同じく人数不足で困っていた同じ小学校を本拠地とするライバルチームと合同チームを組むところから始まった1年間でしたが、合同チームの相性がよかったこともあり、チームは年間通じて好成績を修めることができました。息子は4番打者を任され、他の2人の6年生(キャプテンとエース)とともにチームを勝利に導いていきました。卒団式では、あるコーチの方が作っていただいた6年生一人一人の1年間の活躍を個別にまとめたプロモーションビデオが上映され、1年間の感動がよみがえりました。息子にとっては最高の1年間であり、忘れられない思い出になったと思います。

 こう書くと、6年間ずっと活躍してきたように思われるかもしれません。息子と同学年の他の6年生はそうでした。息子の住む地区でソフトボールをやっている同学年の子は他のチームの子を含めて息子以外でたった4人ですが、それぞれが低学年から試合で実力を発揮し、市内全域にスタープレーヤーとして知られている選手だったのです。そんな中で息子だけがまったくの無名選手、チームのお荷物とまで言われていたほど実力がありませんでした。特にバッティングは全く駄目で、5年生までの通算打率は1割に満たず、5年間の通算ヒット数が両手で数えられるほどの散々な成績。5年生の終わりにようやく少し打てるようになってきましたが、そんな子が6年生になって初めての公式戦で4番に指名されるとは誰が想像できたでしょう。本人が一番びっくりしていたようですが、このチャンスで結果を残した息子は、5年間出すことができなかった芽をついに出すことができました。そして4番として6年生の1年間を通じて大きく成長し、低学年から花開いていた他の4人の同級生に実力で肩を並べ、大きな花を咲かせることができたのです。

 卒団時にチームからいただいた寄せ書きの中に、入団時からずっと息子を指導して下さったあるコーチからの言葉を見つけました。
「6年間あきらめずに頑張って練習して、6年生になって一気に開花した君を見て、あきらめずに続けることの大切さを改めて感じました。ありがとう。」
 この言葉に、私は次の聖書箇所を思い出していました。

 「そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
          (新約聖書・ルカによる福音書13:6~9)


 私は、今でこそクリスチャンとしてこのような証しを書いていますが、自分の罪を認めて悔い改めてイエス様に救っていただくまでに39年という時間を費やしました。もし、イエス様がその間に私が悔い改めることをあきらめて見捨ててしまわれていたら、私が救われて悔い改めることはなかったでしょう。イエス様は、あきらめることなく、私が悔い改めるのを39年も待って下さっていました。だからこそ、息子がソフトボールで5年間まったく結果を出すことができなくても、私は「下手でもソフトボールが大好きで、このチームでソフトボールを続けたい」という息子の意思を受け止め、卒業まで息子の成長をあきらめることなく応援し続けてあげることができたのだと思います。

 努力が必ず報われるとは言いません。むしろ、世の中努力が報われないことのほうが多いのが現実です。すぐに結果が出ないからといって、無駄な努力とあきらめてしまう人がいます。人の努力を無駄だと切り捨ててしまう人がいます。もし自分がそうだと思う方は、上の聖書箇所を思い出してみてください。その努力を見ている誰かがいます。努力を認めてくれる誰かがいます。努力を通して成長するのをずっと待っていてくれる誰かがいます。私たちが悔い改めるのをずっと待っていて下さるイエス様のように。


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