〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
「イエス様が私にして下さるすばらしいこと」
安福ふみえ
 キリスト教信仰に入ったからといって、人格が魔法のように向上するという訳ではありません。 私は少々怒りっぽいところがあり、人に批判されることにも弱いところがあります。

 キリスト教信仰に入った18歳の頃、立派な信仰者のモデルがズラリといました。いつかあの人たちのようにハイレベルの姿に変身したいと願って、少しは努力してはいたつもりですが、いつまで経ってもたどり着けないことに歯がゆさを覚えました。本当の自分より以上に自分を大きく見せていることも気づかず、周りに過剰に期待され、疲れてしまい、落ち込むこともしばしばでした。信仰さえあればそのうちに人格的に磨かれていくのだと思いつつ・・・。

 ある時、心の学びによってわたしは信仰を取り違えていたことに気がつきました。キリスト者だからこそ、謙虚に学ばなければならないのです。アルバート・エリスによる人格形成の学びですが、自分の思考の枠内だけでなく、もっと幅の広い考えを持つ必要を教えられました。

 例えば何かに失敗して人から批判されたとき、批判内容をより深刻に受け止めて落ち込んだり腹を立てたりしていたのです。しかし学びによって開眼していきました。何でもうまくやれるに超したことはない。でも、たといそうでなくても、私は何事にも失敗するわけではない。一つもうまくやれないわけではない。得意とするものもある。私はわたし、自分はじぶんなのだ。そういう欠点を、神様がすべて赦して私を愛してくださっている。母も、友も私を愛し理解してくれている。いつでも失敗ばかりしているわけではないのに、一つの失敗を取りあげてだめな人間だと考えるのは理にかなわないのです。幅の広い考え方を持たなくてはいけないのに、融通の利かない考え方になっていました。

 また、怒りやすい人には固定観念があります。少し大げさな表現かもしれませんが、人は皆、自分を大切に扱うべきだ、私の願うように行動すべきだ、もし人が私を大切に扱わなければその人は間違っている、という固定的考え方があるのです。しかし、人が自分を大切に扱ってくれるに越したことはない。もし大切に扱ってくれなかったとしても、自分だって全ての人を大切に扱えるわけではない。だからその人が、間違っているということでない、私はわたしなのだと幅を広げる。

 人生観にしても、多くの人々が思うように行かず、壁にぶち当たります。人生は私の願うように展開すべきだ、そうでなければこの人生は生きるに値しない。しかし、幅の広い考え方によれば、人生が私の願うように展開してくれるに越したことはない、たといそうでなくても、人生は生きるに値しないということではないのです。私には家族があり、理解してくれる友がある・・・。だからその人々のためにも頑張って生きようと。

 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
                (ルカによる福音書6章31節)


というイエス様のことばがあります。そう教えたイエス様ご自身が私にもそうして下さっているはずです。ならば自分が一番してほしいこと、すなわち、自分をありのまま受け入れてくれているはずです。

 イエス様は私の願うこと、すなわち私の失敗を赦して、そのままのあなたを愛しているよと言って下さいます。一生努力して変身しないと受け入れないイエス様ではなく、私の個性を愛してくださいます。そのように神様の愛への深い理解に変わってから、私は平和に生きられるようになったのです。

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