〈 信仰生活のあかし 〉
< 信仰生活のあかし >
当てはずれ
小林 茂男
 ベッドに横に寝て口に筆をくわえて、すばらしい詩や絵を描かれる星野富弘さんの「当てはずれ」があります。

当てはずれ 「あなたは 私が考えていたような方ではなかった
       あなたは 私が想っていたほうからは来なかった
       私が願ったようにはしてくれなかった


 私は2018年の9月で87歳になります。私の87年間も全くこの詩の通りです。私は生後1年半で母が病没、父と祖父に育てられました。小学校6年生(昭和18年・1943年)から、今住んでいる三重県の滝原を出て、大阪の叔父の家に下宿し、大阪市の工業学校(旧制5年制)に入学しました。

 しかし、敗戦(1945年8月)5カ月前の昭和20年(1945年)3月14日、大阪大空襲で焼き出され、三重の実家に戻り、松阪工業学校(旧制5年制)機械科に転校しました。大阪市の工業学校では電気科であったのに化学科を希望して三重県庁に転校届を出したが機械科に入れられました。全くの当てはずれです。そして、のちに松阪工業の校長になられた機械科長で多気町出身の小野虎男先生の仲人で結婚しました。

 三重県に戻った故郷に滝原には、工業学校機械科の同クラスに小学校の1年先輩の1人、化学科には同じく小学校の1年先輩の2人が居ました。優秀な先輩が1年浪人して入学しているので、私も滝原から直接松阪工業学校の入学試験を受けていたら、この先輩に肩を並べて入学できただろうかと思いました。

 松阪工業を卒業し、住友金属工業株式会社鳴海製陶所(現在ボーンチャイナーで知られている鳴海製陶株式会社)に就職しました。戦後4年の昭和24年(1949年)の事で、住友財閥は鉄に頼るだけでなく、陶器にも目をつけたのでした。しかし当時は不況で、製陶業も営業不振で従業員900人を600人とする人員削減に追い込まれ首切りです。ここでも当てはずれです。

 私は、幸いにも機械科出身であったため、本社工場の製鋼所に転勤となり、陶器から離れ、機械工場のスタッフとなりました。私が今あるのは、この時、6か月工場で勤務した鳴海の上司が、大阪の上司に丁寧に取り次いで頂いたお蔭と今でも忘れられません。

 大阪の機械事務所は、機械工場の企画進行係、作業係、設備係、労務係が机を並べていました。職場には200台もの機械があり、それぞれ機械に作業員がつき機械を動かしていました。また加工された製品が組み立てられていました。私は作業係と設備係の補佐を兼務し、設計書を作業に流すと共に設備の保全(メンテナンス)を担当し、工業学校機械科出身者として一番やりがいがあり、一番能力を発揮できる仕事と思いました。

 しかし、今度は設計部門の増強で設計に移されました。設計といっても熱力学など難しい知識は必要ないので、工場の経験を生かして加工しやすく、組立てやすい車両の設計に力を入れました。そして最初は、電車の車体の下部にみられる鉄道車両の設計でしたが、高炉で鉱石を溶かし、溶融した銑鉄、鉱滓・鋼塊・鋼板・鋼管など鉄鋼会社で使う車両の設計にも手を広げ、一方会社は自社で銑鉄・鋼鉄を製造する高炉メーカーとなったので、自社はもちろん他の高炉メーカーからの車両を受注し、その設計も出来て幸せでした。

 会社は高炉メーカーとして和歌山に5本、鹿島に3本の高炉を建設したので、そのために必要な鉱石を受け入れる港、受け入れる置場(ヤード)が必要となり、本社では港の計画、現地では鉱石ヤード・石炭ヤードを担当し、今までとはスケールの違う仕事となり戸惑いましたが、私は和歌山での建設を学び、鹿島で建設の鉱石ヤード・石炭ヤードと製鉄所全体のレイアウトにも従事でき、住友金属工業株式会社鹿島製鉄所の建設、更には日本の鉄鋼業の発展に大きく寄与できたと自負しています。

 定年で滝原に帰郷してからも予想と大きく異なる生活となりましたが、第一コリントの信徒への手紙2章9節の「目が見えもせず、耳が聞きもせず、人の心に思いも浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」との聖書の「み言葉」の通り、試練も益としていただけましたことを感謝しております。

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