どのようにしてノルウエー人が市役所裏に
米倉安雄

 松阪に、遥か北欧からノルウエー人がやって来て、宅地建物を取得して住み着き、キリスト教の伝道活動を展開するなどとは、1588年に蒲生氏郷が開府して以来、前代未聞のことである。
 1949年8月、ベルゲンで開かれたノルウエー・ルーテル自由教会の総会は、日本伝道を決定した。毛沢東の革命下にあった中国大陸における同教会宣教活動の転進であった。
 松阪の市民にとって馴染み深い人になっていくペール・キブレ宣教師夫妻が、神戸港に着いたのは、1950年2月14日のことである。弱冠26歳の新婚夫婦であった。 続いて、同年11月22日、当時33歳であったロルフ・グードイ宣教師夫妻が、同年12月19日にはシグルド・アスケ宣教師夫妻が、神戸港に到着した。
 彼らで構成するノルウエー・ルーテル自由教会日本伝道団(シグルド・アスケ団長)は、日本における宣教地を選定するために、神戸を拠点にして、鳥取県、淡路島、兵庫県、三重県に出向いて必要な調査を行った。その結果、三重県を対象地域と定め、松阪を拠点にして伝道活動を開始することとした。
 1951年3月、アスケ宣教師はグードイ宣教師とキブレ宣教師を伴って、宇治山田市(現伊勢市)にある日本基督教団山田教会に冨山光慶牧師を訪ねた。「三重県こそ、日本をひっぱった伊勢神宮があり、日本伝道のために最も大事なところと知って、ぜひここで伝道したい」というのが、訪問の趣旨であった。もともと「伝道するのなら、どんな教派でも大歓迎」という姿勢の冨山牧師は「異存はない」と応対した。
 このことが、同教会の会員で、大王町(現志摩市大王町)波切に住む山本丈喜知氏(元満州国チチハルメソジスト教会会員、戦後引揚者)のキブレ宣教師に対する熱心な伝道誘致要望と相俟って、後にキブレ宣教師が松阪を拠点として行う志摩地方への伝道活動を推進する端緒となった。
 続いて、同年5月、アスケ宣教師は、グードイ宣教師とキブレ宣教師を伴って、拠点づくりの調査をするため松阪に入った。松阪には、戦前から、商業通り(松阪市殿町)に日本基督教団松阪教会がある。三人の宣教師は、まず、同教会の河村斎美牧師(元満州国奉天教会牧師、戦後引揚者)を訪ねることから始めた。
 松阪に入った日、三人の宣教師は愛宕町にあった高級割烹旅館「むさし」に宿泊した。売春防止法施行の七年前のことであり、「むさし」はネオンが輝く遊郭の真ん中に、純日本風木造建築三階建ての威容を誇っていた。
 翌朝、グードイ宣教師は「むさし」の近くにあった間瀬理髪店へ調髪に出掛けた。そのとき、理髪店の棚に聖書が置かれているのを見て、驚くのである。覚束ない日本語でマスターの間瀬さんに尋ねると、彼はキリスト者であり、しかもこれから訪ねようとしている日本基督教団松阪教会の信徒であるという。グードイ宣教師の心は熱した。「わずか人口4万人のこの古い城下町にも、キリスト教徒が居る。この人と会えたのは、決して偶然ではない」。
 河村牧師を訪問した三人の宣教師は、同牧師の温かい接遇と親身になって相談に乗ってくれる態度に深く感じ入った。北欧から東の果て「日本」に渡来した宣教師たちが、河村牧師のキリストにある徳と懐の深い親切に触れ、松阪を三重県における宣教活動の拠点とする考え方を揺るぎないものとしたことは、想像に難くない。
 河村牧師は協力を引き受けて、宅地建物取引業者の店舗に、売り物件を探しに出掛けた。その結果、出てきたのが市役所裏に位置する松阪市殿町1331番地の、現在、松阪ルーテル教会が建っている敷地と牧師館として使用されている和風建築の家屋である。その物件を、1951年9月21日、ノルウエー・ルーテル自由教会は、75万円相当の25,000クローネで取得した。為替レートは固定で1ドル360円、カレーうどんが一人前45円の時代であった。
 アスケ宣教師は、松阪へ宣教師を派遣するに先立ち、日本福音ルーテル教会に経験豊富な日本人牧師の招聘を求めて、有資格者の割愛を懇請した。
 その結果、1951年10月、武井正悟牧師(1931年日本ルーテル神学専門学校卒)が松阪ルーテル教会初代牧師として赴任した。武井牧師は、松阪における三年間、卓越した手腕をもって牧会と伝道活動に当たるとともに、ペール・キブレ宣教師の幅広い活動を支えることになった。
 青年宣教師ペール・キブレが、妻トルウエルを伴って松阪に赴任したのは、1951年の秋も深まった11月10日のことであった。
 一年間、神戸に住んで日本語の習得に励むなど、これからの活動に備えていた二人は、その日の朝早く、運送店のトラックに蔵書と世帯道具を積み、日本人運転手の横に乗り込んだ。神戸を発って大阪で国道一号線に入り、鈴鹿峠を越えて関から伊勢街道別道を通り津に抜け、そこから伊勢街道に入り六軒を経て松阪に至るのである。
 戦後間もない当時は、幹線道路でさえも一般道で、まだ改良の手が付けられていなかった。車のすれ違いが侭にならないほど幅員が狭く、しかもほとんど舗装されていなかった。道路とはこんなものだと思っていた日本人であれば、晩秋の鈴鹿峠越えは、馬子唄を口ずさみたくなるような風情のある道中であったかも知れない。しかし、北欧先進国からやってきた二人にとっては、決して快適なドライブではなかった。その上、その日の峠付近は厚い雨雲に覆われて暗く、トラックは猛烈な土砂降りに襲われた。
 フロントガラスを激しく叩く雨に前方の見通しは悪く、山岳道路の走行は不安であった。突然、トルウエル夫人が、ノルウェー語で歌いはじめた。
 「雨を降り注ぎ 恵みたもうと
  神は愛をもて 誓いたまえり
  夕立のごと あまつ恵みを
  イエスよ今ここに 注ぎたまえや」
 日本人運転手の脇で、まだ日本語が不自由な若いノルディック夫婦は、心細い思いをしたに違いない。後年、ペール・キブレ宣教師が語った次の言葉に過ぎた日の思いを知ることができる。
 「やっと、これから住むことになる松阪の家に着きましたら、河村先生のお嬢さんたちが門の前に並んで待っていてくれたのです。それを見たとき、ほんとにほっとしました。みんなで雨に濡れた家具を乾いた雑巾で拭いてくれたんです。ありがたかったですね。」
 いよいよペール・キブレ宣教師の活動が始まったが、その一ヶ月後、12月17日の夜、松阪大火が発生して、若い二人を震撼させた。
その夜は冷え込みが厳しく、堀坂おろしが吹き荒(すさ)んでいた。湊町にあった市立第二小学校から出た不審火は、強風に煽られて瞬く間に広がり、戦災を免れた城下町も、南の市街地737戸を焼失し、3,565人の罹災者を出した。この大火で、その年の初夏、アスケ宣教師たち三人の宣教師が宿泊した割烹旅館「むさし」も、グードイ宣教師が調髪した間瀬理髪店も焼失した。
 翌日から、救援活動に懸命に奉仕する北欧人青年の姿に、市民の目が注がれた。松阪ルーテル教会とペール・キブレ宣教師の存在が、市民の間に広く知られていくはじめであった。

 ペール・キブレ宣教師が1991年に日本を去るまでの41年間に、ノルウエー・ルーテル自由教会が建設した教会は、四日市、津、美杉(地元篤志家による寄贈)、松阪、大王(志摩)、東垂水(神戸)にある。今では、神戸ルーテル神学校など牧師養成機関で育成された邦人牧師により、それぞれの地域で、ルター派北欧敬虔主義に立つキリスト教会として、その役割を遂行している。
 2004年の秋、ノルウエー王国は、ペール・キブレ元宣教師の東洋における長年の功績を、叙勲をもって顕彰した。80歳にして矍鑠(かくしゃく)としたキブレ老牧師は、苦楽を共にしてきたトルウエル夫人を伴い、クラゲロの自宅からオスロまで200キロの道のりを愛車を走らせた。正装した夫妻は揃って宮殿に参内し、国王陛下ハラルド五世に拝謁したのである。

(本稿は、「松籟」第18号=平成17年12月刊=に掲載された原稿を新資料により加筆訂正したものです。)[よねくら やすお。日本基督教団銀座教会会員、松阪ルーテル教会元会員。] 
ページトップへ戻る】   【戻る
Copyright(C)24MatsusakaLutheranChurch,AllRightsReserved.