〈聖書からのお話し〉
 
「キリストのご愛に触れる」

牧師 三 ヶ 嶋 徹 
 
 聖書をお持ちの方は開いてみて下さいませんか。

「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た」
           (新約聖書・マルコによる福音書5:21)


 狐には穴があり、空の鳥には巣がある、と言われたイエス様ですが、主には休む暇もなく、人々が集まってきていることが分かります。そしてそこには、どうしてもイエス様に癒していただきたいと願う切実な思いの人がいます。

「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』」
        (新約聖書・マルコによる福音書5:22、23)


 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれます。ところが、この会堂長ヤイロの娘の癒しの話の間には、12年間出血の止まらない女性の話が挿入されています。おそらくここを読む人は、腰の落ち着かないと言うか、イライラしたような気持ちを抱くのではないでしょうか。何もこんな時に、イエス様は急がないと、と言う気持ちです。しかし、私たちは覚えたいと思うのです。「時」には、神様の「時」と、一般的に考えられている私たちの「時」があるということです。私たちは遅々として事が進まないことに苛つきます。しかし、全てには神の「時」があるのです。旧約聖書にも、

「何事にも時があり、
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
殺す時、癒す時。」
          (旧約聖書・コヘレトの言葉3:1~3より)


とあります。つまり、私たちには、理解できない神様の時の支配があるのです。

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」
        (新約聖書・マルコによる福音書5:25~28)


 ここには何やら迷信めいた信仰が見え隠れしていないか、と思われる人はいませんか。「服にでも触れれば癒してもらえる」。かたやヤイロはどうだったでしょうか。「主に来ていただいて手を置いてもらえれば助かる」と言う信仰です。何かあまり大差ないように思われるのですが、皆さんはいかがでしょうか?

 ともあれ、この12年間も苦しんでいた女性は、主イエスならば癒していただけると言う確信を持って近づいたことは間違いのないことでした。さらに大勢の群衆が押し迫っている中にあって、多くの人々が主の衣どころか体にも触れていたであろう状況にあって、イエス様の癒しはこの女性のみに成されたと言うことです。

「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」
           (新約聖書・マルコによる福音書5:34)

と、言われた主の言葉に注目したいのです。私たちはこの女性は少し迷信めいた信仰の持ち主だとか疑う者です。しかしイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。他者の信仰をとやかく言う前に、この私の信仰をまず顧みる必要があるのではないでしょうか。

 そうこうしている間に、ヤイロの娘は亡くなったとの知らせが入ります。しかし、「恐れることはない。ただ信じなさい」とイエス様は言われます。ある意味単純かも知れませんが、ただ信じることによって、癒された12年間難病に悩まされた女性の信仰に、ヤイロも私たちも立ち返ることが大切ですね。



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