〈聖書からのお話し〉
 
「復活の喜びに生きる」

牧師 三 ヶ 嶋 徹 
 
 キリスト教はどのようにして一つの宗教として出てきたのか、ということがしばしば問われた時代がありました。そこには、キリスト教の中心的な人物であったイエス・キリストが十字架につけられ、弟子たちは皆逃げ去ってしまったのに、どうしてキリスト教のような宗教が生まれたのだろうかという疑問です。そしてそこで気がつくことは、キリストの復活と言うことが彼らの信仰の土台ではないか、と言うことなのです。

 彼らは、「主イエス・キリストは十字架につけられ死んだが、弟子たちの間ではいつの間にかキリストは甦られたと言う信仰が生まれた。それがキリスト教を生き返らせたのだ。復活信仰というのは、便宜上誰かがつくったのだ。」と言うのです。誰かの作り話が大勢の人を動かし、そして、ついには世界的な宗教になるというのは、おおよそ考えられないことですが、そういうふうに考えるのが一番説明がつきやすい、と言う人たちがいるのです。

 それでは教会はどう考えるのでしょうか。もちろん教会は、「弟子たちが失望のどん底から立ち上がったのは、キリストが甦られたという信仰によるのだ。」と言います。新約聖書の使徒言行録に、イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダの代わりに、もう一人の弟子を選出するところに、こう書いてあります。

 「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
            (新約聖書・使徒言行録1:21~22)


そして、キリストは甦られたということは、今日に至るまで教会の大きな力となりました。それを考えれば、その信仰はどこから生まれたのでしょうか。ある人たちが言うような、「どこの誰かは知らないけれど、頭の良い人がいて、うまく作り話をでっち上げた。」と言うことが本当に言えるのでしょうか。

 新約聖書のマルコによる福音書の最後には、

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
           (新約聖書・マルコによる福音書16:8)

とあります。本当にびっくりしてしまって、どうにもこうにもしようがない気持ちになったのでしょう。誰かがうまい作り話を作ったというのなら、「イエス様が復活されて、怖くて逃げ去った」などと書くのでしょうか。さらに、彼女たちは復活の主に会ったわけでもありませんでした。なのに、彼女たちは怖くて逃げたのです。彼女たちは、弟子として、幾度か主の御業や奇跡を見てきたはずです。しかし、今回は違いました。イエス様は、父なる神様のお力によって「復活させられた」のです。天地万物を創造し、アブラハムに働き、モーセをリーダーとしてイスラエルの民をエジプトから脱出させ、乳と密の流れる地カナン(現在のパレスチナのイスラエル)に導き入れた神。その「神が甦らされた」と言う現実を彼女らは知り、恐れて逃げ出したのです。復活の喜びは、まずここから始まるのではないでしょうか。イエス様を復活させてくださった神があなたにも働いてくださり、あなたの人生を共に歩んでくださいます。そして、大きな喜びで満たしてくださいます。あなたも一度教会に足を運んでみませんか。



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