〈聖書からのお話し〉
 
「十字架の愛」

牧師 三 ヶ 嶋 徹 
 

 私たちは自分の人生の中で神様に尋ねることはないでしょうか。たとえば、「神はいるのか」、或いは「神は本当の正しいお方として世の中を支配しておられるのだろうか」、などと、神そのものの存在を問う人もいるでしょう。しかし、聖書では、反対にキリストご自身がお尋ねになっておられます。神の子が人に対して、つまりイエス・キリストの方から弟子たちに問うのです。

 「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。」
           (新約聖書・マルコによる福音書8:27)

 人はよく世論調査というものをします。そして、万人がそう言う意見だというと、何かそこに真理があるように思います。確かに、道路をどこに通すかとか、橋をどこにつけるか、という物質的なことなら、世論調査も一理あるでしょう。しかし世の中には、たといみんながそう主張しても、それに逆らってでも真理を主張し、「私はこのように信じ、決断する」と言わなくてならないことがあります。正義に関わること、信仰に関わることがそうなのです。世論調査や、投票によって、神がどうこう言うのはおかしい話です。

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」
 もちろん、イエス・キリストが世の評価を気にしておられるのではありません。一人一人の信仰の決断を問う前提として、世の批評、評価とは全く違うということ、つまり人は、世はそういうけれども、「あなたの目の前にいるこの私は誰なのか」という問題です。新約聖書の時代から数多くのイエス伝が出されて来ました。しかし、人の書くイエス伝は、その人その人の人間観、信仰観、人生観が言い表されているだけなのです。もっと言うと、イエス・キリストがどんな教えをされたのかということ以上に、「イエスそのものの存在」が問題なのです。もしイエス・キリストが、私たちにとって単なる人で宗教家に過ぎないなら、その人の教え、その内容が問題であるなら、私たちはやはり単なる思想家、宗教家と同じレベルでイエス・キリストを取り扱っていることになります。しかしこのお方が救い主であり、神様であるなら、どうでしょうか。わたしたちはこうしてはいられません。

 神の一人子が、神ご自身が人として世においでくださった永遠なるお方が、
 限りある人間の世界に介入してくださった。
 ひとりの幼子として、飼い葉桶をゆりかごとしてくださった。
 ひとりの人として、人の味わう苦しみも悲しみも経験してくださった。
 十字架において、ただ一人何もおっしゃらずに、人類の救済の御業を達 成してくださった。
そのようなイエス様が私たちに「わたしは誰か」と聞かれるとき、それは同時に私たちに「あなたは一体何者か」と問うているのです。

 イエス・キリストが神であり、救い主であるという事実は、教えではありません。それはその人が、聖霊なる神の導きを受けて、自分から信じ決断する他はないのです。さて今、イエス・キリストは「あなたはどうか」と問われます。あなたの決断、あなたの意見を聞きます。信仰とは、このわたし一人に関わることなのです。



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