〈聖書からのお話し〉
 
「愛は寛容です」

牧師 三 ヶ 嶋 徹
 
 少し古い作文なのですが、とても印象に残った、ある小学生の男の子の作文を紹介したいと思います。

 「ぼくは夕ご飯の時、おかずをこぼした。お父さんから『よそ見をしているからだ』としかられた。弟も『そうだ、よそ見をしているからだ』と言った。しばらくしてお父さんもおかずをこぼした。家中はシーンとなった。」

 何か、可笑しくて微笑ましい家族の食卓の光景です。自分のことを思い出す時、食事の最中に自分自身もテレビを観ながらよく父に叱られた経験を持つものです。ところで他人に対して、私たちも少なくとも一度は似たような経験を持っているのではないでしょうか。ともすると私たちは、相手の弱さや欠点については素早く見抜き、指摘することはとても上手でも、そのことを赦し、受け入れることはあまり得意ではありません。聖書の中でイエス・キリストは、ガリラヤ湖のほとりの小高い丘の上で、次のように言われました。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
          (新約聖書・マタイによる福音書7:3~5)


 ここで言われた「相手の目の中のおが屑」とは、およそ肉眼では見えないような小さなホコリのことです。いわば、些細な短所や欠点と言えるでしょう。ところが「自分の目の丸太」とは、文字通り、材木のような大木とも言えるものです。他人の事すら見えないはずの、自分では到底取り除くこともできないようなもの(罪)が横たわっていると言うのです。

 私たちはよく「自分のことは棚に上げて・・・・」などと言いますが、本当に私たちは相手を責めたり、批判したりしがちです。『よそ見をしているからだ』と、おかずをこぼした男の子に間髪を入れずに叱ることは出来ても、いざ自分が同じ失敗をした時にはしごく自分には寛大であるというわけです。イエス様の「偽善者よ、」と言う言葉は厳しいように思いますが、私たちの現実の生活を振り返る時、そう呼ばれても仕方がないようにも思えてきます。

 それをもう少し深く捉え直してみると、私たちは相手の立場になかなか立つことが出来ない者である、ということではないでしょうか。しかし、イエス・キリストはあなたの立場に立った唯一のお方です。十字架の苦しみの中から、ご自分を裏切り、十字架につけた人々のために、

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
           (新約聖書・ルカによる福音書23:34)


と神に祈られました。ここに、あなたを赦し、あなたを受け入れ、あなたの立場に立つ神の愛があるのです。この愛を経験するところから、他者に対しても寛容で、親切なあなたの生活が始まるのです。まず、キリストに出会い、自分の中の丸太をのような罪を取り除き、赦していただきましょう。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。」
    (新約聖書・コリントの信徒への手紙一13:4、新改訳)




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