〈聖書からのお話し〉
 
「悲しみに寄り添うキリストの愛」

牧師 三 ケ 嶋 徹
 

 新しい年の初め、皆様にはお元気でお過ごしでしょうか。今年も聖書からのメッセージに心の耳を傾けて下さい。

 わたしはある著書において、心を引き付けられる文書を目にしました。それはオーストリアの精神分析学者として有名なフロイトの影響を受け、その後輩にあたる、スイスの有名な精神科の医者で、ルートビィッヒ・ビンスワンガーと言う人の文章です。この人がご自分の子どもを亡くされた時のことを書いていると言う内容のものでした。

 その時、フロイトがビンスワンガーにお悔やみの手紙を送りました。その中で、フロイトは、次のように言っています。「非常に悲しみと言うのは、時間が経つと薄らぐだろう。しかし、失われた者の代わりと言うのは、絶対にあり得ない。どんなに心の中にあいた穴を埋めようとしても、また埋められたと思っても、絶対にそれは最初のものの代わりにはなり得ない。したがって、悲しみが強いのは、当然であり、これは、われわれが、手離そうとしない、われわれが持ち続けたい、その愛を続ける唯一の方法なのだ」と書き綴られていたそうです。

 フロイトからの手紙は、時間が経つと悲しみも和らいでいくが、けれど失った者の代わりはいない、悲しむだけ悲しんで、しっかりと失ったものへの愛を心に刻みつけて行くのだと、言うことでしょうか。

 実はわたし自身も、最初の子どもを流産で亡くす経験をしました。家内と抱き合って大声で泣いたことは、まるで昨日のことのようで一生忘れることは出来ません。今、生きていれば三十代半ばでしょうか。その時人から「時が経てば悲しみは薄らぐよ!」と言われました。確かにそれは間違いではありませんが、やはり今でも思い出す度、悲しみや辛さが込み上げてきます。

 失意の中で、わたしの心に響いて来たのは、聖書の言葉でした。それはイエス・キリストが、ユダの裏切りによって敵の手に渡され、死刑の判決を受け、十字架にはり付けられる直前、ゲッセマネの園というところで祈られた時の言葉でした。

 「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」
       (新約聖書・マタイによる福音書26:37、38)


 神の独り子、救い主イエス、生まれつきの足の不自由な人や、目の不自由な人を癒し、悲しみのどん底にある者を慰め力づけ、社会から捨てられたような人々に希望を与えられたキリストが、ここに至って、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と祈られたのです。イエスの悲しみは何であったのでしょうか。迫ってくる十字架の死の恐怖、肉体の苦痛への恐れではなかったと思います。そうではなく、キリストの悲しみは、無理解で罪の深さに嘆き悩む人々に、死の現実の厳しさを前にして、途方に暮れる人々に、そっと寄り添うところの悲しみではなかったでしょうか。

 わたしは、このキリストの悲しみに自分の悲しみが触れ重なったとき、心の底から強い慰めを感じました。あの時、沈み込むことなく、今のわたしがこうして牧師として用いていただいているのも、日々経験する喜びも悲しみにも、このイエス・キリストが共に居てくださるからなのです。
昨年聞いたクリスマスメッセージにもあります。

 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』」この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
           (新約聖書・マタイによる福音書1:23)


 この新しい年の歩みに、インマヌエル(神は我々と共におられる)という方が共に歩んで下さる幸いを経験してみませんか。どうか一度、教会の礼拝にお越しください。信徒一同心からお待ちしております。



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