〈聖書からのお話し〉
 
「罪と赦し」

牧師 福井 基嗣
 
 私の大切にしている古本の一つに、夏目漱石の「こころ」があります。岩波書店、大正9年4月5日発行(25版)の小さな本ですが、昔の文体で読むとまた味わい深いものがあります(ちなみに初版は大正3年9月20日発行)。

 この小説「こころ」を、あるクリスチャン文学者が「この小説には、人間への深い洞察、罪の洞察がある」と評されました。
作品の主人公「先生」は、学生時代、無二の親友Kの恋人を奪い、彼を自殺に追いやります。その後、「先生」はそれを自分の罪として生涯負いつづけ、晩年、「先生」は自ら命を絶つことで、すべてを清算しようとするのです。

 先の文学者は続けて「ここには罪の洞察があるが、赦しがない」と言われました。聖書もまた私たちの心を罪の洞察へと導きます。

 私の父も牧師であり、クリスチャンホームに育った私は、子どものときは素直に神様の存在を信じていましたが、思春期を迎える頃、神様のことがわからなくなりました。またキリスト教の言う罪とは何なのか、わからなくなりました。
 高校生の頃、友人から「キリスト教は罪、罪って言うけれど、罪って何なのか?」と問われたとき、「罪っていうのは、つまり嘘をついたり、他人の者を盗んだりすることや」と答えた私に、彼は「嘘をついたり、盗んだりするのが人間というものではないのか」と反問され、それ以上何も言えなかったことを思い出します。
 英語では聖書の言う罪と嘘や盗み、殺人などの罪(犯罪)を区別して用います。犯罪はcrime、聖書の罪はsinというように。
もともと聖書の罪という言葉は、ギリシャ語でハマルティアという言葉が用いられています。これは直訳すると「的外れ」という意味です。

 神、神と言いますけれど、キリスト教の神は、ユダヤ教とイスラム教と同じ神で、全知全能唯一の神、そして万物の創造主です。 そしてその神を認めないで、まことの神という的をはずし、神を信頼しないこと、それを罪(sin)と言うのです。言わばそれは宗教的な罪なのです

 ヨハネの福音書は、イエス・キリストのことを、この闇の世に来られた光であると証言しています。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」
                (ヨハネによる福音書1章9節)


 この光は冷たい、人を断罪する光でなく、赦しを与える光なのです。

 私たちの世界に闇の現実が確かにあります。憎しみが憎しみを生み、争いが絶えない現実、人の命がいとも簡単に奪われつづける現実があります。そしてその闇は、自分自身の心の中にもあるのはないでしょうか。

 しかし、闇の中に来られた方がいます。そこに光が、罪の赦しが備えられているのです。私たちに闇の現実があるからこそ、世の光としてイエス様は来てくださいました。
 小説「こころ」の「先生」は自ら命を断ちました。しかしそれは、神様の望まれることでは決してないのです。

 このイエス様にこそ、赦しがあるのです。皆様がイエス様に出会われる日が来きますよう心よりお祈りしています。


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