〈聖書からのお話し〉
 
「『私』だけではなく」

牧師 福井 基嗣
 
 8月15日から20日まで、タイで開かれた世界ルーテル連盟(LWF)のバンコク・プレアッセンブリーに出席してきました。この会議は、来年アフリカのナミビアで開かれる、世界ルーテル連盟の本会議(7年に一回開催)のために、アジア地区のルーテル教会から約90名の代表者が集まったものです。

 期間中、連日朝8時からの礼拝ではじまり、夜10時までという、かなりハードなスケジュールでした。そもそも世界ルーテル連盟の活動は、世界各国の伝道のみならず、各地域における人権はじめ、貧富の格差、性差別、環境などの諸問題や広範囲にわたる現代社会の課題に対し、世界中のルーテル教会が、キリスト者の共同体として取り組もうとするものです。

 今回の会議には、イスラエル・パレスチナ、インド、バングラディッシュ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、ミャンマー、タイ、香港、韓国、日本、オーストラリア他等々、多数の国の人々が集いましたが、伝道の状況も、またそれぞれの国が抱えている社会的な問題も、かなり違っているのです。

 会期中、私はあるグループ別分科会に参加しましたが、その分科会のテーマは環境問題でした。出席者の顔ぶれはインドネシア、パプアニューギニア、インド、タイ、日本などでした。

 それぞれの国が抱える環境の問題を発題し合いました。日本を除く他の国の方々は皆、行き過ぎた焼畑農業や政府の開発による森林破壊とそれに伴う洪水の問題などを訴えられました。日本は原子力発電所と核と核のゴミの問題を発題しました。
 私はこの分科会の後で、妙な感じを受けました。日本が核の問題を訴えても、どこか日本以外の国々の方にはもう一つ切実さが伝わらないような感じを受けました。同時に私たちも焼畑による環境破壊ということが頭ではわかっても、今一つ実感がわかない気がしました。

 日本に帰って来て、今、主イエス・キリストの「愚かな金持ち」(ルカ12:13-21)のたとえ話を思い出しています。
 ある金持ちの大農場主が、その年思いもかけない大収穫を得て、彼は今の倉庫を取り壊し、すべての収穫を蓄えて、あとは食べて、飲んで、楽な生涯を送るのだと喜びます。そのとき、神は彼に言われます。「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)。

 原語聖書の直訳によりますと、彼は大収穫を喜んでこう繰り返し言っています。「私の作物」、「私の倉」、「私の穀物や財産」、「私の魂」と。つまり、この大収穫の時、彼には自分のことしか眼中にないのです。「私」しかありません。

 普通大収穫を得たら、小作人に少しボーナスをはずもうかとか、いや、これも自分を支えくれた妻や家族のおかげだという発想がありそうなものですが、そういう言葉は一切でてきません。ましてや、神の恵みへの感謝のひとかけらもないのです。
あるのは「私」だけ、そこにパートナーはいません。神もいません。

 私があの分科会で感じた妙な感じは、キリスト教の世界だけのことではなく、社会全般に通じるものではいでしょうか。日本だけよければよい。自分たちさえよければよい。そういう考えはよくないと頭で分かっていても、ともすればつい、まず自分が第一に来て、「私」の世界の住人になり、周りや外が見えなくなることがよくあるのではないでしょうか。

 国内においても国外においても、また普段の生活の中で、他者との様々な違いや格差にぶつかる時があります。
 
 それでも神は、人は「私」の世界に生きる者ではなく、「共に生きる」世界に生きていく者、そしてまた神に生かされている存在であることを、聖書を通して、今も私たちに語りかけておられるのです。その声に耳を澄まし、神に対して、また他者に対して、心を開いていく者でありたいと願わされます。


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