〈聖書からのお話し〉
 
「必要と貪欲」

牧師 福井 基嗣
 
 ルカによる福音書の中で、ある日イエス様は、人々にどんな貪欲にも注意を払うよう教えるため、「愚かな金持ち」のたとえを語られました。  この金持ちは自分の農園の思わぬ大収穫に、倉を建て直して、遊んで暮らそうと自分に誓います。しかしそんな彼に神は言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカによる福音書12章20節)と。

 英語で貪欲はgreedといいます。貪欲をある神学者は、「際限のない所用物の増大に執着する欲望」と定義していますが、いわば、足りることを知らない、際限のない欲望・執着が貪欲ですね。
 だからといってイエス様はここで財産を持つことをもちろん否定しているのではありません。聖書は、神は日ごとの糧をあたえ、勤労を祝福される方であると記します。いうまでもなく日ごとの糧、衣食住、お金これは必要なものです。必要は英語でneedです。

イエス様はここで人に貪欲・greedを警戒するようにと戒めています。

 神学生だったころ、ある講演会で、アメリカの神学者がこの問題について講義されたことがあります。そのときgreedは罪であるが、needは罪ではないとはっきり言われたわけです。確かにそうであろうと思いますが、ではいったいどこまでが必要で、どこからが貪欲なのか。この欲は必要であって、これ以上は貪欲ですよと分ける基準は何か、それを質疑応答の時間に尋ねてみたのですが、そのときはっきりお答えをいただけませんでした。

 すると講演が終わってから、別な先生がそばにきて、私の質問に代わって答えてくださったのです。

 「その基準は一人一人違う。例えばある人が私をもっと大切にしてほしい、大事にあつかってほしいといつも強く願っているとする。他の人はあの人はいつもしつこくて、あつかましいな。貪欲だなと思うかもしれない。しかしそれが当の人にとっては必要なことである場合がある。その基準は一人一人違っている。」と言われた言葉を忘れることが出来ません。

 17節以下、思いもかけぬ豊作となった金持ちは「どうしょう。」とうれしい悲鳴をあげていますが、その後に続く彼の言葉は直訳にしますと、「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」「私の魂」と私の、私のと、四度繰り返しています。ここに他の人はいない。私しかいない。まして神はいないのです。

望外な豊かな収穫。そこに、「ああ、小作人たちががんばってくれたからだ。ひとつボーナスでもだすかな」とか、「ああ、これも妻や家族が支えてくれたからだ」という言葉も、感謝も、まして神が与えられた恵みという思いもなく、私しかないのです。人間として生きる相手、隣人も神も、一切パートナーを否定している姿がそこにあります。

 豊かさが罪なのではない。「食べたり、飲んだり、楽しむこと」が罪なのではない。それらは恵みなのです。この神の恵みを恵みとして認めない傲慢によって、人は貪欲の罠に陥ってしまうのではないでしょうか。

 そのときその金持ちに、「愚かな者よ」と神の言葉があった。それは上から垂直に響く神の発言であります。しかも直訳で神は彼に言ったとありますから、彼はこの声を聞いたことになります。そしてたとえはここで終わっています。

 この声を聞いて彼はどう反応したでしょうか。実にそれをイエス様はおしゃってない。しかし私ならどう反応するでしょう。主イエスはあなたらどう答えるか、その暗黙の問いをこのたとえを聞く当時の人々に投げかけ、同じ暗黙の問いがこのたとえを通して、現代の私たちにも投げかけられているように思います。

 私ならこの神の声にどう応えるだろうか。私もよく私だけの世界の住人なるときがあります。私の世界の住人であり続けるのか。神と共に、そして他者と共に生かされる道に導かれるのか。その時、主の憐れみと赦しを求める私たちでありたいと願わされます。


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