〈聖書からのお話し〉
 
「主がお入り用なのです」

牧師 福井 基嗣
 
 皆様のカレンダーとは別に、キリスト教会はもう一つのカレンダーを持っています。それは「教会歴」と言います。教会歴では、今年の11月27日(日)は待降節(アドベンド)の始まりで、イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝のための準備が始まる日です(この日は聖書の暦の定めにより、年により日は変わります)。
 その備えの始まりの日を待降節第一主日(今年は11月27日)と呼び、待降節第四主日にクリスマス礼拝を行います。教会ではアドベンドキャンドル(四本の蝋燭を柊の葉などで飾ったもの)を、待降節第一主日の礼拝の日、聖壇などに設置し、その蝋燭に一本だけ火を灯します。そしてすべてのキャンドルの日が灯ったときがクリスマス礼拝の日です。

 この待降節の始まりの日曜日に、礼拝の中で読まれる聖書のみ言葉に、イエス様が十字架に架かられる一週間前、救い主としてイエス様がイスラエルの都、エルサレムに入城したときの出来事についてのみ言葉が伝統的に選ばれてきました。
 イエス様が救い主、つまり神のみ子、王の王としてエルサレムに入城にされたとき、用いられた乗り物が「子ロバ」でした。当時、王が都に入場するときは軍馬を用いるのですが、イエス様は子どものロバに乗られました。

 その入場の日、イエス様は弟子たちにその準備を指示し、近くの村にある子ロバを連れ来なさい。もし持ち主が何か言ったら、「主がお入り用なのです」 と伝えよ。そうすれば持ち主は子ロバを渡すだろうとおっしゃいました。

「主がお入り用なのです」というこの短い、一言のみ言葉は、わたしにとって想い出のある大切なみ言葉の一つです。
二十代のとき、私は自分の人生の行き先について途方に暮れていました。子どものときから、目指してきた自分の夢に破れ、今後どうしていっていいのか、生きる目標を見いだせず、悶々としていたときでした。ある日の教会の祈祷会で、今日の聖書箇所が読まれました。 当時のわたしは自分が何をやってもだめな、無能な人間のように思えていました。ですから、「この主がお入り用なのです」というみ言葉が心に突き刺さりました。

 こんな自分でも神の目から見たら、必要とされるのだろうか。何かの役に立ったりすることがあるのだろうか。そう感じました。そしてこの「主がお入り用なのです」というみ言葉が、自分は神に必要とされている、というように聞こえました。それは何か神のためにしなければならない。頑張って奉仕しなさいという、何かさせようというようなそんな操作的な言葉ではなくて、今のあなたが、ただ神に必要とされているのだ。たとえ今それがわからなくとも、あなたの人生に意味があるのだ、という神のメッセージに聞こえたのでした。

 ターミナルケアや死、医療の問題などで著作のある柳田国男さんというお方がおられますが、この方の息子さんは自閉症でありました。そして社会生活に馴染めず、何もなしえないことに悲観して、自ら命を絶ったのでありました。その遺言に「社会にとって自分は無用の存在」であるとあったそうです。

 父親として柳田さんは、何とか息子の生涯に意味を与えたい。自ら無用だと言って何もなしえなかった生涯が無用なものではないという証を、父親としてたててやりたいと願われて、まず息子さんの体を臓器移植され、そして息子さんのことを本に書かれたそうであります。

イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入る。これも意味のないことではなく、意味のあることでありました。イエス様がこのとき、乗るのはロバの子でなければならなかった。馬やラクダではいけません。また大人のロバでもいけませんでした。なぜかというと、大人のロバは、既に乗り手がついている。ユダヤの掟において神のご用に用いる場合、当然まだ誰も乗ったことのない、初乗りのロバでなくてはならないのと定められていましたので、自然、子ロバということになります。
なぜかと申しますと、この子ロバに乗ったエルサレムに来る王こそメシヤ(救い主)と旧約聖書・ゼカリヤ書9章に預言されているからです。ですからイエス様が子ロバに乗るのは意味あってすることで、このことによってご自分が預言者ゼカリヤを通して神が約束したユダヤの王である、メシヤであるということを示されたわけです。
「主がお入り用なのです」。この言葉は今日も私たちに語られる主のメッセージであります。それはあなたの人生に意味がある、神の愛とご計画の中にあるというメッセージなのです。そしてそこに本当の自分を私たちは見出すのではないでしょうか。「神に生かされ、赦され、愛されている自分」を。


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