〈聖書からのお話し〉
 
「インマヌエル」

牧師 福井 基嗣
 
 マリアは天使の御告げにより、イエス様を身ごもったとき、同じく身ごもっていた親類のエリサベトを訪ねました。マリアを迎えるエリサベトは、聖霊に満たされ、マリアを祝福された方と呼び、「主がおっしやったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」(ルカ1:45)と言います。そしてマリアもまた主を讃美いたします。しかし、この二人の身におこったことは、他人の目から見れば、幸いとは言い難いものでした。

 婚約者のある身で、神の子を宿すというマリア、そして老齢で、身ごもり、まわりの好奇の目にさらされるエリサベト、しかし、この二人が出会ったとき、幸いなるかなということばが口から出たのでした。

 ある牧師がこう言われている。
『「苦難のときにも神はおられるのか」というような言葉を聞くと、わたしはこの質問自体が大きな錯覚から出てきているのではないかと強く思わされる。
 まずこの問いは、苦難というものを、私たちが人生を生きる際の例外的なものとして扱っているように思えるからである。私たち一人一人の人生は平穏無事なことが普通であって、何か特別な事件や出来事が起こることが、異常なことと人々が思いこんでいる点にこそ、現代社会における大きな錯覚が存在するように思える…。
 そんなことはない。苦難は様々な形をとり、すべての人の人生にいつも伴っていると考えた方が実際的であり、また聖書的である。そして、主イエス・キリストは、罪の重荷に苦しむすべての人を「救い」に来て下さったのである。』

『信仰とは信頼して神を仰ぐことである。その約束を信頼して仰ぐ。…いつの時代にも、神を信じるということは、見ることによってではなく、みことばに聞き従うことによってであった。事故、災害、病気、誤解、中傷等の苦難の時にも神信仰を持ち続けたいと思うなら、苦難の中で祈って、神のみことばに、聖霊の導きに、しっかりと耳をすまさなければならない。…そうするならば、二つの変化が訪れるだろう。一つは、私たちの周りの外的な状況が時間の経過と共に思いがけない方向に変化してゆくこと。そしてもう一つは、わたしたちの内面が神のみこころにふさわしく変化するだろうことである。』

 わたしにはこの言葉が、まさに今日のマリアとエリサベトの姿に重なってきます。苦難の中で、「神の言葉は必ず実現する」と信じた二人。そして時間の経過と事態の共に思いがけない方向への変化、また内面の変化がおこります。

 これらの変化・出来事が、信仰の出来事が、このマリアとエリサベトの内と外で見事に起こっている。そしてその出来事はこのマリアをして「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と言わしめたのでした。(ルカ1:47)
もちろんこの信仰の出来事を導いたのは聖霊であり、神の力によるものと福音書は記しています。しかしまた、この信仰の出来事はマリアがエリサベトに会いに行ったことでおこったことでもあります。

 二人が出会ったこと、共にいようとしたこと、心の重荷を、問題を分かち合おうとしたことによっておこっていることに、一つの示唆があるように思います。
 「人知れず苦しんでいるのは自分だけではないかと思う。そんなことはない苦難は様々な形をとり、すべての人の人生にいつも伴っている。」と先の牧師も言っていますが、しかしその苦難にじっと耳を傾けてくれる人がいること、あるいはただそばにいてくれる人がいるだけで本当に助けになることは多々あるのでないでしょうか。

 もちろん痛みは本人のものであり、だれも代わることはできない。しかし尚、共いて、聞いてくれる人がいる、これは幸いなことだと思います。信仰もまた一人で信じるのではないと思います。「幸いなるかな。あなたの決心は間違っていない」と言ってくれる信仰の友、あるいは家族や仲間があることは大変ありがたいことではないでしょうか。

 何より、主イエスが私たちの友となって、また私たちを救うために来てくださったのがクリスマスであります。そしてこの真の友が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます(マタイ28:20b)。

 インマヌエル「意味:神は我々と共におられる」(マタイ1:23)。この祝福が皆様の上に豊かにありますようお祈りいたします。


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