〈聖書からのお話し〉
 
「主の洗礼」

牧師 福井 基嗣
 
 イエス様はおよそ30歳の時に、故郷のナザレ村を出て、ガリラヤ地方から始まって、町々村々で、神の救いを宣べ伝えられました。その期間はわずか3年間でした。その3年間をイエス様の「公生涯」と呼びます。

 その公生涯で、イエス様が一番、最初になされたことは、ヨルダン川に行き、そこで人々に悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、洗礼を受けるということでした。

 洗礼とは、神に対する罪を認め、悔い改めて、神への信仰を告白するために受けるものです。

 このことでよく言われますのが、なぜ罪のない神の御子が、罪を悔い改める洗礼を受けられたのかという疑問です。

これに対して、「ナルニア国物語」で知られるイギリスの作家のC.S.ルイスがこのように言っています。

 「罪人である私たちは悔い改めなければならない。しかし、困ったことに、まさにその罪ゆえに、完全な悔い改めができない。矛盾のように聞こえるが、完全な悔い改めが可能なのは、罪のない者なのである」
 
一体この罪と何か。英語では罪を二つの単語に分けています。CrimeとSinです。窃盗や傷害などはCrime、つまり犯罪です。Sinは神様を信頼しないこと、まことの神を神としないこと、神から的を外した存在であること、それは宗教的な罪を意味します。

 そして聖書の悔い改めという言葉は、この神に背を向けていた人が、全く神に向きなおる、方向転換を意味するものなのです。

 つまりイエス様の洗礼は、イエス様は完全に悔い改め、完全に神を信頼されているということを現わすものなのです。

 しかし罪人であるわたしたちは、完全に悔い改めることも、完全に神を信頼することもできないのです。何か災いや不幸が身に起こった時、長い苦しみが続く時、ともすればわたしたちは不安になり、神がいるのなら、なぜこのようなことが起こるのかと神を疑い、迷いやすいものなのです。

 アメリカで新しい大統領が選ばれました。この状況に不安を覚えている人々が日本だけでなく世界的に多くおられるということを、ネットニュースを見るたびに感じます。これから世界はどうなっていくのか。しかしそうしたグローバルニュースと一緒に、日本の市井の人々の悲惨な出来事が連日絶えまなく目につきます、高齢者ドライバーによる交通事故、うっかりした落ち度で起こった大火災、最近、特に胸につきささったのが、「父ちゃんが死ぬなら、僕も死ぬ」とうメモを残して、生活保護を受けていた父親と一緒に子どもの遺体がアパートで見つかった事件でした。

 まさに人生はトラブルの連続であり、なぜこのようなことがということが起こります。そして神に対する信頼の動揺と不安は、キリスト者の心にも起こるのです。

 C.Sルイスが言ったように、私たちは完全に悔い改められない。完全に神を信頼することができないからです。それが罪(Sin)なのです。

 しかし、だからこそこの時、イエス様は私たちのために洗礼を受けてくださいました。私たちのために、神を完全に信頼するという正しさを、私たちの代わりに果たしてくださったのです。
 そして「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17)という神の愛をわたしたちにそのまま与えてくださったのであります。

 わたしたちは神に対して罪人です。だからこそ、イエス様はこの世に来てくださった。完全に神を信じられない、わたしたちのために、罪なき御子が洗礼を受けられた。それは神の正しさを示すと共に、私たちと同じ洗礼を受けることによって、私たちとの連帯、仲間となられたということだからであります。

 イエス様はあなたのまことの友であり、救い主であることを、わたしたちはお伝えしたく願っています。


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