〈聖書からのお話し〉
 
あなたの罪は赦されている

牧師 屼ノ下照光 
 
 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。           (マタイによる福音書 18章27節)

主イエス・キリストが教えてくださいました祈り『主の祈り』から、ともに聖書のみ言葉を聞きましょう。『主の祈り』の第五の願いは、罪の赦しを願う祈りです。

「わたしたちの負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をもお赦しください」
        (松阪ルーテル教会の式文で用いている『主の祈り』)
「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」
           (カトリック教会、日本聖公会の『主の祈り』)

 主イエスさまは、人が互いに赦し合って生きることを望んでおられます。なぜ、赦し合わねばならないのでしょうか。それは、私たちが神さまの大きな恵みによって赦されているからです。イエスさまは、そのことを教えるために、一つのお話をしてくださいました。
 それは、マタイによる福音書18章21~35節に記されています。聖書をお持ちの方は、その「『仲間を赦さない家来』のたとえ」を一度読んでみてください。
このたとえは、弟子のペトロの質問に対する答えとして語られました。ペトロは、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねました。それに対してイエスさまは、「あなたがたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と答えられました。赦すことに何回までという数は無意味であるとイエスさまは語って、ひとつのたとえ(お話)を語ってくださいました。
 王さまに1万タラントンの借金のある家来がいました。とても返すことができません。彼は王さまの前で青い顔をしてひれ伏して、「待ってください」と懇願しました。王さまは彼を憐れに思って、その借金を帳消しにしました。この家来は大喜びで王さまの前を去って行きました。ところが、彼は、100デナリオンを貸している友人に出会いました。彼はその友人に借金の返済を求めました。友人は、「待ってくれ」と懇願しましたが、彼はそれを赦そうとはせず、その友人を捕らえて牢に入れてしまいました。このことが、王さまの知るところとなり、王は再びその家来を呼び寄せて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言いました。
 借金をめぐってのトラブルはどこにでもある話ですが、このイエスさまのお話しにはたいへんおかしなところがあります。そのおかしなところこそ、このたとえの大切な中心的なところなのです。ここには、おかしなところが二つあります。その一つは、1万タラントンという家来の借金の額の大きさです。1タラントンは6千デナリオン。1デナリオンは当時の一日の労働賃金です。当時、ユダヤ全土からローマ帝国に治められた税金が1年間で800タラントン。1万タラントンがとてつもない金額であることが分かります。家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願いましたが、とても返済できるような金額ではありません。このたとえで語られている巨額の借金は、私たち人間の神さまに対する罪の大きさを表しています。
 このたとえのもう一つのおかしなことは、この王さまが、家来の巨額の借金をすべて赦して帳消しにしたということです。借金、負債は返済しなければなりませんが、それがすべて帳消しになりました。すべたが帳消しになったということは、だれかが肩代わりして支払ったということです。聖書は、巨額な負債のすべてを肩代わりしてくださった方として、十字架を背負われた主イエス・キリストを指し示します。私たちの罪というとてつもない神さまへの負債は、神の独り子イエスさまの血によって、すべて支払われたのです。
 ここで、このたとえにおいて、なぜ1万タラントンというとてつもない金額の借金という形で語られているかが分かります。このとてつもない金額は、私たちの神さまに対する“罪”の大きさを表しているとともに、神さまの私たちに対する愛の大きさを表しているのです。
 このたとえには続きがあります。1万タラントンの借金を赦された家来が、100デナリオンを貸していた仲間を赦しませんでした。100デナリオンというのは少なくない金額ですが、1万タラントンに比べるなら、“たったそれだけ”という金額です。しかし、それを赦すことができませんでした。残念ですがそれが私たちの姿でもあります。
 主イエスさまが教えてくださった「主の祈り」で、「私たちに負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をも、お赦しください」、「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」と祈っています。“神さまの赦し”、“互いに赦し合う”というのはキリスト教信仰における重要な主題です。“赦す”ということは決して簡単なことではありません。しかし、主イエス・キリストは、私たちを“赦され、赦す者”として生きるようにと招いてくださっています。しかし、他者を赦せない自分を見ます。そのような時は、神さまの前における巨額の負債を帳消しにしてくださった主イエスさまの十字架のもとに立ち帰りたいと思います。そして、そのところから“赦された者”としての歩みを始めたいと思います。主イエスさまは、御自身の十字架を示して、「この十字架のゆえに、あなたの罪はすべて赦されている」と語りかけてくださっています。それが、他者に対しての“赦され、赦す”歩みのはじまりとなるのです。この祈りを祈りながら、いつもいつも、主イエスさまの十字架のもとに帰って、そこから新しい歩みを始めることが大切だと思います。


 以下に、教会で用いられている「主の祈り」を紹介します。

   天にいます、われらの父よ
   み名があがめられますように
   み国が来ますように
   みこころが、天で行われるとおり、地にも行われますように
   私たちの日毎の食物を、今日も、お与えください
   私たちに負債のある者を赦しましたように
   私たちの負債をも、お赦しください
   私たちを試みにあわせないで、悪しき者からお救いください
   み国も、力も、栄光も、とこしえに
   あなたのものだからです   アーメン
           (松阪ルーテル教会で用いている「主の祈り」)

   天におられるわたしたちの父よ
   み名が聖とされますように
   み国が来ますように
   み心が天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように
   私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
   わたしたちの罪をお赦しください
   わたしたちも人を赦します
   わたしたちを誘惑におちいらせず
   悪からお救いください
   国と力と栄光は、永遠にあなたのものです  アーメン
      (日本聖公会、カトリック教会で用いている「主の祈り」)


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