〈聖書からのお話し〉
 
「生 き よ」

牧師 屼ノ下照光 
 
 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』   (マタイによる福音書 11章28節)

  星野正興という牧師さんが、『神様の正体(いるところ)』というキリスト教入門の本を書いておられます。その冒頭には、「神を必要とする今の人々」という文があります。そこでは、星野牧師が一人の女性の訪問を受けて、その女性から、彼女の生い立ちや50歳になる現在にいたるまでの辛かったこと、苦しかった話を3時間以上にもわたって聞いたということに触れて次のように書いておられます。
 
 三時間以上話し続けるその人も、きっと疲れたにちがいない。一呼吸入れるために、話しに一区切りがついた。そして深くうなだれ、
「どうして、自分はこんなにみじめなのでしょう」
と自分を呪うような言葉を呻くようにもらした。
 私はそこで、自分のことを話し始めた。自分も劣等感のかたまりであったこと。今でも自分がみじめに思えてどうしようもなくなることがあること。牧師であるのに、もう死んでしまいたいと思うこともあるということ。そんなことを話すと、その女性はこう聞いてきた。
「じゃ‥‥‥なぜ生きているんですか。なぜ生きておれるのですか」と。
 私はその問いに多少たじろぎながらも、こんな言葉で答えたことを思い出す。 「こんな私にも、『生きよ』と声を掛けてくれる、こんな者を支えてくれる、目には見えない方がおられることを信じるからです」。
 今までうなだれていたその女性は、急に顔を上げ、生気を取り戻したような顔付になってこう言った。
「私は、その言葉を聞きたかったのです。ありがとうございました。これから生きて行けそうです」。
 そのあと何週間かして、彼女から手紙が来た。その手紙に詩が添えられていた。その詩の全文の記憶はないが、たしか「生かされて今日を歩む」というものであった。
 この星野牧師の言葉を読んで、私はたいへん共感をおぼえました。なぜなら、私自身もまったく同じだったからです。18歳のころ、私が、自分を愛することもできず、生きる意味も知らず、何の希望も見いだせないままに、いつもうつむいて歩んでいたとき、イエス・キリストご自身が私に近づいてきてくださいました。主イエスさまは、そんな私を愛し、赦してくださり、受け入れ、包み込んでくださって、「おまえも生きていていいんだよ」と語りかけてくださったのでした。私は、その主イエス・キリストに支えられて66歳のこの時まで生かされてきましたが、今日も主イエスさまは、私に語りかけ、私を支え、私に、「生きよ」と語りかけてくださっているのです。


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