〈聖書からのお話し〉
 
「慰 め」

牧師 屼ノ下照光 
 
「悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる」
  (マタイによる福音書 5章 4節)

 松阪ルーテル教会では、毎月第二土曜日の午後1時から「詩画と聖書に親しむ会」が開催されています。毎回、星野富弘さんの詩画の一編を選んで鑑賞し、参加者が互いに感想を述べ合い、また、聖書の言葉を聞いています。
星野富弘さんは、中学校の教諭をしておられましたが、部活動の指導中に頸椎を損傷して手足の自由を失い、以後、車椅子の生活をしておられます。入院中に、口に筆をくわえて文や絵を描き始められました。花の絵に詩をそえられた多くの『詩画集』を世に送り出し、全国で開催されている「詩画展」では、多くの人たちが感動を与えられています。1991年には、群馬県に富弘美術館が開館しました。キリスト者である星野富弘さんの詩には、「神」という言葉はほとんど出てきませんが、その絵と詩は、神さまへの賛美と感謝、祈りで満たされています。

 今年、2月の「詩画と聖書に親しむ会」では、クリスマスローズのきれいな絵にそえて、次のような詩がありました。
       悲しい時に
      悲しめる
       心を持っている
       あふれ出る
       涙がある
      なんという
      慰めだろう


 クリスマスローズの花言葉のひとつに、「慰め」があります。この花言葉を知って、星野さんがクリスマスローズの絵に、なぜこのような詩をそえられたかが、納得できました。
私は、この詩に触れて、イエスさまが語られたみ言葉を思い起こしました。それは、イエスさまの『山上の説教の』の次の一節です。
「悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる」
 (マタイによる福音書 5章 4節)

 私たちは、生きている中で、さまざまな悲しみや嘆きを経験します。そのような「悲しむ者」は幸いであるとイエスさまは語っておられます。たいへん不思議な言葉です。イエスさまは、「悲しむ者」は、「慰められる」と語ってくださっています。「慰める」と訳されているギリシア語「パラカレオー」という言葉には、「招く」、「呼び寄せる」という意味があります。悲しむ人々こそが、神さまに呼び寄せられ、招き入れられて、包み込まれるというような印象の言葉ではないでしょうか。
 「悲しむ」というギリシア語「ペンソウ」という言葉には、「嘆く」、「死を悼む」という意味もあります。愛する者の死は、悲しみの極みです。その悲しみの極みの中にある人々にイエスさまは、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語っておられます。ある女性のご召天50日の記念の祈りの時に、私は、ご遺族の方々にこのイエスさまのみ言葉を紹介して、「不思議な言葉ですが、ほんとうに深く悲しむところでしか得られない慰めがあるのではないかと思います」とお話させていただきました。死は、確かに悲しみの極みですが、キリストの復活に与る信仰者は、死のかなたにも、キリストと共に永遠に生きるという希望が与えられています。その希望のゆえに、私たちは、愛する人との別れにおいて、深く深く悲しみ、涙を流してよいのです。その悲しみの極みにおいてこそ、主イエス・キリストは、悲しむ者を、そのふところに呼び寄せ、しっかりと抱きとめてくださるのです。
 星野富弘さんの、このクリスマスローズに寄せた詩は、悲しみや涙について、私たちの心を新たに開かせてくれる言葉のように思いました。「悲しむことができる」、「涙をながすことができる」そのことこそが慰めであると語られています。私は、この詩の中に、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と語られたイエスさまの愛の御心を、しっかりととらえておられる星野さんに、深い感動をおぼえました。私自身、星野さんのこの詩に触れて、あらためて、イエスさまのみ言葉の深みに触れる思いがしました。星野富弘さんのこの詩に触れることができたことを感謝しています。

 松阪ルーテル教会の「詩画と聖書に親しむ会」に、どうぞ、お気軽にご出席ください。3月は、9日(土)午後1時からです。お待ちしています。

《 バックナンバー 》
Copyright (C) 2004 Matsusaka Lutheran Church, All Rights Reserved.