〈聖書からのお話し〉
 
「見よ、兄弟が共に座っている」

牧師 屼ノ下照光 
 
     見よ、兄弟が共に座っている。
     なんという恵み、なんという喜び

     かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
     衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
     ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。

     シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。

                          (詩編133編)

 主の年2019年の新年あけましておめでとうございます。
 今日、家族の姿、あり方が大きく変わってきていると言われています。しかし、家族の絆の大切さということは、いつの世も変わることはないのではないかとも思います。

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。
 詩編133編には、夫婦が、親子が、兄弟が、家族が仲睦まじく一緒にいることの喜びが歌われています。そして、そのような家庭に注がれる神さまからのあふれるばかりの祝福の約束が歌われています。
しかし、現実には、家族といえども、さまざまな問題をかかえていることも事実です。聖書の中にも、父親の祝福を激しく奪い合ったエサウとヤコブの兄弟のような例(創27章以下)や、父親に溺愛されたヨセフを妬んだ兄たちが、彼を奴隷に売り渡したしまった物語があります(創世記37~50章)。さらには、聖書が語る人類最初の殺人は、兄カインが弟アベルを殺すというものでした(創4章)。それゆえ、兄弟が、家族が仲良く共に住むということは決して当たり前のことではなく、神さまからの大きな恵み、深い憐れみによるのだと思うのです。使徒言行録16章には、パウロに出会ったフィリピの牢獄の看守が、神さまの大きな恵みの導きの中で、イエス・キリストを信じ、家族ともども洗礼の恵みに与かって喜んだという記事が記されています。
 パウロは、イエス・キリストの救いにあずかり、イエス・キリストの教会に呼び集められた者は、すべて「神の家族」であると語っています(エフェソ2章19節)。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、‥‥」。「神の家族」。すばらしい言葉です。イエス・キリストの教会に呼び集められている私たちは、実にイエス・キリストに結び合わされた「神の家族」なのです。それゆえ、教会においては、お互いを兄弟姉妹と呼び合います。
 1月1日は私の受洗記念日です。1970年1月1日に、南大阪ルーテル教会の元旦礼拝において洗礼の恵みにあずかりました。礼拝が終わると、いっしょに礼拝をまもっていた人たち、私にとっては、その時、初めて出会う人たちでしたが、その人たちが手を差し伸べて握手し、祝福してくださいました。それは、家族を離れてひねくれたように寂しく生きていた私が、家族として迎え入れられた瞬間でした。そのような経験は、15歳で田舎から大阪に出て来て、はじめてことでした。私が18歳の時のことです。

この年も、多くの方々がこの松阪ルーテル教会に導かれるようにと祈り、願っています。そして、神の家族として私が迎えられたように、この教会においでになる方々を、兄弟姉妹として、神の家族として、喜びと感謝をもってお迎えしたいと思います。
 どうぞ、神の家族が待っているイエス・キリストの教会、松阪ルーテル教会においでください。
 この新しい年、それぞれご家庭に、ご家族に、神さまの祝福が豊かに注がれますようにとお祈りいたします。

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