〈聖書からのお話し〉
 
「地の塩、世の光」

牧師 福井 基嗣
 
 ある日、イエス様は御自分のところに、救いや癒しを求めてきた多くの人々や弟子たちに向かい、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と言われました(マタイ5:13-16)。

 ここでイエス様は、「地の塩になれ。世の光になれ」とか、「地の塩でなければならぬ。世の光でなければならぬ」とは言われません。ご自分に聞き従う者は、そのままで「地の塩である。世の光である」と言われるのです。

 親子の関係でも、「お前はいい子になれ」とか「いい子にならなければならない」と繰り返し言われるよりも、はじめから「お前はいい子だ」と言われる方が子どもはうれしく、安心することでしょう。

 今、毎日新聞の日曜版に西原理恵子さんという漫画家が、「毎日母さん」という漫画を連載しています。この西原理恵子さんを私がはじめて知ったのは、もう二十年以上前のことです。同じく毎日新聞にこの方の漫画が単発で載っていました。

 西原さんは、毎日新聞から「世紀末の正義」というシリーズコラムの中で、作品を依頼された。西原さんは「正義ってゆわれても、自分自身、どこをどう見ても正義らしきもんがないんで、子供の頃、一番嫌だった事、そして、大人になってやっぱりあれは嫌だったのが正しいんじゃないのかなあ、そういったことを書こうと「ガッコが嫌いだった」と題して書き下ろしマンガと原稿を寄せたものでした。

 マンガの中でこんなエピソードが描かれている(せりふのみ)。 「わたしは小、中、高とハンパじゃなく、勉強が出来ない大バカモノであった。情けないのは全くやらなくて馬鹿なんじゃなくて、結構努力しているのに馬鹿だったという点である。けつろん10年以上やって、だめなんだからこりゃ向いていない(今でも九九がいえない)。親は子どものためを考えたら早くこのことに気づかなければいけないと思う。「学歴がないと何をやってもだめ」と洗脳されていた当時の私のコンプレックスは大変なもんだった。学校はばりばりの管理教育。体罰もしょっちゅうあった。毎日はきけがした。行くのは本当にいやだった。誰かがいかなくていいんだと言ってくれたら私はどんなに楽になったろう(中略)。

 17の時頭と同じく素行の悪かった私は高校を強制退学になった。学校から母親と一緒に帰る家までの道はすごく長かった。台所にお父さんがいた。わたしはおまえなんか出て行けと言われると思った。お父さんはニコニコ笑って私を抱きしめて「学校と世間がお前を悪い子とゆうんなら、それはそっちが間違っている。お前は世界一のいい子だからだ」といった。私はゆるしてもらって本当にうれしかった。子供とゆうのは馬鹿だから誰かにゆるしてもらえないと居場所がない。それから私は大人になった」。

 わたしはこれを読んで、本当にこのお父さんはすごいなと思いました。こんなとき自分はこのように言えるだろうか。無条件にわが子を受け入れることができるだろうか。

 イエス様は、貧しく、悲しみや病を抱えて押し寄せてきた多くの群衆に、「あなたがたは地の塩、世の光である。」と言われます。こんな貧しい者にそんな力があるのか。こんな病や痛みを持つ者がどうしてできようか。とそのような反応もあったかもしれない。私たちもまた、世の光とか地の塩のというような、そんな世に役立つような力は私にありませんと思うかもしれません。

 しかしイエス様は、私を信じる者はそのままで「地の塩。世の光なのである」と言われます。どこか先ほどのお父さんの言葉とかさなるような、主の受容に満ちた祝福の言葉であり、委託のことばなのであります。

 たしかに私たち一人一人に、その人その人の痛みがあり、悲しみがあります。また私たちは小さな群、貧しい力であるかもしれない。しかし主は、今日も「あながたは地の塩である。あながたは世の光である。」と私たちを受け入れ、励ましておられるのです。そして塩を塩たらしめる源、光を光たらしめる源、それが神であり、イエス・キリストであります。 主イエス様が私たちの存在をそのように祝福し、そのように用いると約束されていることを信頼したいと願わされます。


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